「業のはなびらー父と子の秘史」
朝、テレビを見ていたら、宮沢賢治特集をやっていた。「業のはなびらー父と子の秘史」番組の中で「二十六夜」という作品を紹介していた。宮沢賢治の詩碑文にと父が推したのは、「雨ニモマケズ」ではなく「業の花びら」という詩だった。業の花びら夜の湿気と風がさびしくいりまじり松ややなぎの林はくろくそらには暗い業の花びらがいっぱいでわたくしは神々の名を録したことからはげしく寒くふるへてゐるああたれか来てわたくしに言へ「億の巨匠が並んでうまれ しかも互に相犯さない 明るい世界はかならず来る」と ・・・遠くでさぎが鳴いてゐる 夜どうし赤い眼を燃して つめたい沼に立ち通すのか・・・松並み木から雫が降り空のどこかを風がごうごう吹いてゐるわづかのさびしい星群が雲から洗ひおとされてその偶然な二っつが黄いろな芒(のぎ)で結んだり残りの巨きな草穂の影がぼんやり雲にうつつたりする(詩集「春と修羅 二」より)(賢治の誓願)昭和8年(1933年)1月1日付け(この年の9月21日亡くなる)で宮澤賢治は、浅沼政規則、河本義行、菊池信一、高知尾智耀、母木光、高橋忠治、藤島準八、伊藤与蔵の8人に新年の挨拶を送っている。(「宮澤賢治全集」第15巻書簡集)特に高知尾智耀の名前が注目される。賢治が父との確執を経て、家出同然に東京に出て、国柱会の田中智学に面会にあがったとき、応接したのが高知尾智耀であった。賢治は法華行者としていかに生きるべきか智耀に相談しとき、智耀の回答に自らの生きるべき道を見出した。賢治はそれを自らの手帳に記録した。その手帳は賢治の死後発見され、「雨ニモマケズ」の詩が書かれてあったことから、「雨ニモマケズ」手帳と名づけられた。 その135ページにこう書いてある。「 ◎高知尾師ノ奨メニヨリ1. 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ、 報ヲウケズ、 貢高ノ心ヲ離レ2. 」また、139ページ、140ページには、紫色のエンピツでこう書いてある。(カタカナをひらがな表記にした)「筆をとるやまず道場観 奉請を行ひ所縁 仏意に契(かな)ふを念じ 然る後に全力之 に従ふべし 断じて 教化の考えたるべからず! たゞ純真に 法楽すべし たのむ所おのれが小才に 非(あらざ)れ。たゞ諸仏菩薩 の冥助によれ。」 実に宮澤賢治は、高知尾智耀の勧めで、法華文学の創作を志し、しかもそれは教化を目的としてではなく、ただ純真な法楽としてなされたのだ。そして賢治は国柱会を離れてからも、終生高知尾師を徳とした。 高知尾智耀あての最後の年賀状にはこう書いてあった。「謹賀新正 昭和8年1月1日 岩手県花巻町 宮沢賢治拝 客年中は色々と御心配を賜はり有難く存じ奉り候 お蔭さまにてこの度も病漸くに快癒に近く いずれは心身を整えて改めて御挨拶申し上げ候」8月30日には、満州派遣歩兵第31連隊第5中隊の伊藤与蔵あての手紙を出している。その中にこんな記述がある。「当地方稲作は最早全く安全圏内に入りました。 初め5月6月には雨量不足を憂い、6月も25日になってやっと植え付けの始まった地区さえあり、また7月の半ばには、湿潤のため各所に稲熱病発生の徴候も見えたりしたのでしたが、結局は全期間を通じての数年にない高温によって成育は非常に順調に進み、出穂も数日早く穂も例年より著しく大きく、今の処県下全般としては作況稍(やや)良と称せられておりますが、西の方の湿田地帯などは仲々3割の増収でも利かないように思われます。 私もお蔭で昨秋からは余程よく、もっとも只今でも時々喀血もあり、殊に咳が始まれば全身のたうつやうになって2時間半くらい続いたりしますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり・・・しています。それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきになっている所で我ながら浅間しい姿です。・・・」 「昔の立願」とは、おそらくは盛岡中学のときに友人たちと岩手山に登った時の誓願であろうか。賢治は生涯を願に生きた人であった。 賢治は盛岡中学時代の親友、保坂嘉一にだけその心中を吐露した。保坂は、盛岡中学を思想問題で退学処分となった。賢治は法華経信者となり、保坂に「一緒に参らして下さい」と口説くのだが、保坂は次第に賢治から離れていく。そんな状況で書いた日付不詳の賢治の手紙にこうある。「あなたはむかし、私が持っていた、人に対してのかなしい、やるせない心を知っておられ、またじっと見つめておられました。今また、私の高い声に覚び出され、力ない身にはとてもと思われるような、4つの願をも起こした事をあなた一人のみ知っておられます。 まことにむかし・・・夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく、自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。」4つの願といえば、菩薩の四誓願を思い出す。「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん せいがんど) 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじん せいがんだん) 法門無量誓願学(ほうもんむりょう せいがんがく) 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)大正9年12月2日には、保坂あて「今度私は 国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は 日蓮聖人の御物です。従って今や私は 田中智学先生の御命令の中にだけあるのです。 謹んでこの事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」と保坂を熱狂的に日蓮宗に折伏しようとする。保坂は入隊していた。賢治の手紙に違和感を覚え、そうした返信を書いた。大正10年1月に、賢治はさらに「あなたの為すべき様は まづは心は兎にもあれ 甲斐の国(保坂は山梨出身)駒井村のある路に立ち 数人或は数十人の群の中に正しく掌を合せ 十度高声に 南無妙法蓮華経 と唱える事です・・・ とにかく保坂さん どうか早く 大聖人御門下になって下さい。」と催促する。賢治は、その頃、実家の質屋の店番をしていたが、保坂に勧めたとおり、自らも花巻町の中を題目を叫んで歩いた。大勢の知り合いも顔をそむけ、行き過ぎては立ち止まってふりかえってそんな賢治を気でもふれたかと見ていた。実家は浄土真宗を奉ずる名家であった。息子の気がふれたような行動に父は激怒した。そして賢治は切羽詰まって東京へ家出を敢行するのである。そして上野に着いて国柱会へ行った。「私は、昨年御入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが、今度家の帰正を願うために、にわかにこちらにまいりました。どうか下足番でもビラ貼りでも何でもいたしますからこちらでお使いくださいますまいか。」知らない先生が出てきて賢治に言った。「そうですか。 こちらの御親類でもたどっておいでになったのですか。 ひとまずそちらに落ち着いてください。 会員であることはわかりましたが、何分突然の事ですし、こちらでも今は別段人を募集もいたしません。よくある事です。全体父母というものは、なかなか改宗できないものです。ついには感情の衝突で家を出るという事も多いのです。まずどこかへ落ち着いてからあなたの信仰や事情やよくうけたまわった上でご相談いたしましょう。」賢治は、そのおさとしにお礼を言って「又お目にかかります。失礼ですがあなたはどなたでいらっしゃいますか。」と尋ねた。「高知尾智耀です。」「たびたびお目にかかっております。それでは失礼いたします。」と国柱会を退出した。その後、小さな出版社に入って、仕事をする。「さあ、ここで種を蒔きますぞ。」と親戚の関徳弥に書き送っている。そして1月30日付けでの保坂あての手紙に、「かって盛岡で我々の誓った願 我等と衆生と無上道を成ぜん これをどこまでも進みましょう」とそのかって立てた誓願を述べている。「形だけでいいですから 大聖人御門下という事になってください」と調子もだいぶ落ち着いてきている。 見習い士官となっていた保坂に賢治は面会を求めた。 7月3日付けの賢治の手紙に言う。「お葉書拝見しました。 私もお目にかかりたいのですがお訪ね出来ますか。・・・ どうです、またご都合のいいとき日比谷あたりか、植物園ででも、又は博物館ででもお待ちしましょうか。」 そしておそらくは日比谷図書館で保坂に賢治が日蓮宗への帰正を求め続ける態度に絶縁を告げたのである。そのときの衝撃が「われはダルケを名乗れるものと」という詩となった。 われはダルケを名乗れるものと つめたく最后のわかれを交はし 閲覧室の三階より、 白き砂をはるかにたどるこゝちにて その地下室に下り来り かたみに湯と水とを呑めり そのとき瓦斯のマントルはやぶれ 焔は葱の華なせば 網膜半ば奪はれて その洞黒く錯乱せりし かくてぞわれはその文に ダルケと名乗る哲人と 永久(とは)のわかれをなせるなり この唯一の親友との別れは、賢治に衝撃的なダメージを与えた。7月13日付けの関徳弥あての手紙に書く。「私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいてください。信仰は一向動揺しませんからご安心ください。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いてください。・・・私には私の望みや願いがどんなものやらわからない。・・・今日の手紙は調子が変でしょう。こういう調子ですよ。近頃の私は。」8月11日付けの関徳弥あての手紙には書く。「7月の始め頃から25日頃にかけてちょっと肉食をしたのです。 それは第一は私の感情があまり冬のような具合になってしまって燃えるような生理的の衝動なんか感じないように思われたので、こんな事では一人の心をも理解しかねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べたためにそれをきっかけとして脚が悪くなったのでした。」ここで「一人の心をも理解しかねる」というのは、おそらくは保坂のことである。10月13日に賢治は保坂嘉内あて手紙を書いている。「拝啓 御葉書有難く拝誦つかまつり候。 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願い上げ候。お陰をもって妹の病気も大分によろしく今冬さへ無事経過致し候はばと折角念じ居り候・・・」とよそ行きの挨拶状を出す。 それまでの保坂への熱情あふれる文章は姿を消す。そして妹の病気を理由に花巻に帰り、農学校の先生となるのである。12月保坂宛の手紙にはこうある。「・・・ 毎日学校に出ております。 何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日のNaClの摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。また頭の中の景色を見てもわかります。 それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。 しきりに書いております。書いておりまする。・・・ 授業がまづいので生徒にいやがられておりまする。・・・」けれども、この親友保坂との別れによって、教師宮沢賢治が誕生し、そして不朽の文学を創作し続けるのである。すべては宮沢賢治にとって、必要な必然の出来事だったのかもしれない。