歴史上で活躍した技術者の執筆したものをまとめ、積極的に出版を続けている活動は、非常に貴重である。
M/T様木更津工業専門学校の武長先生が台湾で活躍した技術者を紹介した論文で「技術者は成果が事業の形で示され、ある意味はっきりしている反面、学者や小説家と違い個別の成果がはっきり分かりにくく、また書いたものの注目度もあまり高くない。その点で、二宮尊徳の会のように、歴史上で活躍した技術者の執筆したものをまとめ、積極的に出版を続けている活動は、非常に貴重である。筆者はこの会の書籍を2冊所有している2)。2)『八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師』二宮尊徳の会、2017年;『資料で読む技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある』二宮尊徳の会、2021年.」とあります。正しく評価していただいて感謝です(^^)台湾日日新報と台湾の技術者1. はじめに日本植民地期の台湾(1895‐1945)において、有力な新聞はいずれも漢文記事も掲載しながら日本語紙で、三大新聞と呼ばれた。中心都市台北市で発行された台湾日日新報と、台中市で発行された台湾新聞、台南市で発行された台南新報である。台湾日日新報は、1896年(明治29年)発行の『台湾新報』と『台湾日報』が合併し1898年(明治31年)に成立した。1939年(昭和14年)の発行部数は68,392部に達ている。同じ年の台湾新聞12,348部、台南新報が40,185部に比べてもずっと多く、敗戦まで台湾における最有力新聞であり続けた1) 。台湾日日新報は、成立において台湾総督府の指導が強く働いたこと、総督府の命令や人事等を伝える府報が掲載されていたことなどから御用新聞と呼ばれる。筆者は、この新聞が常に総督府の政策を支持し続けたとは限らないことから、必ずしもこの名称に賛成しないが、行政との結びつきが強くあったことは確かである。だからこそ取材や情報の入手が比較的容易であり、台湾日日新報は、植民地期台湾史の研究において不可欠な存在となっている。他の台湾新聞、台南新報も同様であり、むしろ台湾日日新報以外の新聞の活用が十分に進んでいないのは台湾史研究上の大きな欠点であるが、台湾日日新報自体は、詳細に注目し調査に値する新聞であることは確かである。日本では、国立国会図書館をはじめ多くの大学図書館に台湾日日新報のマイクロフィルムが所蔵されているが、すでに台湾で作成され、多くの図書館でデジタル版を所蔵されているため、台湾はでアクセスが格段に便利になった。日本では丸善を通して購入あるいは契約できる。本稿もまた、デジタル版を活用している。日本では台南新報を所蔵しているところは極めて少ない。筆者は、日本台湾交流協会の図書館にあることを確認しているが、他は知らない。台湾では、多くの図書館で冊子およびマイクロフィルムで台南新報を読むことが出来る。デジタル化はまだのようである。台湾新聞に至っては、冊子もしくはマイクロフィルム化もされていない。台湾新聞が容易に入手できるようになれば、様々なことが分かるようになるのではないか。やはり部数が大きく違い特に台湾在住の日本人(内地人)への影響力は、台湾日日新報が他を大きく引き離していたと言ってよく、この新聞に注目や研究が集中するのは十分理解できる。この新聞によって組織や人物の動向、考え方等をある程度確認することが可能である。筆者は、八田與一をはじめとする台湾総督府に勤めた技術官僚の研究を続けており、本稿もその一環である。植民地期台湾においては、総督府が大きな力を持っており、ある種日本内地以上に官尊民卑なところがあった。民間所属の技術者も多数いたものの、やはり総督府所属の官僚が主流であり、今日まで名が知られている技術者は多くがそうである。彼等は度々新聞の取材を受け、また寄稿も行った。そうした記事は、台湾で活躍した技術者について、研究内容や主義主張等、技術者の人物を知る上で多くの材料を提供してくれる。なお、技術者に限らず、一定の社会的地位のある人物が新聞に載る最も多い機会は、人事・移動などの情報である(現在はそうとは限らない。当時の新聞の事情)。デジタルである人物を検索しヒットした場合、最も多いのは、その人物が台北(あるいは台南、台中、高雄など)の何という旅館に泊まった、そこを離れた、東京に滞在中である、あるいは任命された役職、与えられた位階・勲章などである。そうした記事も検討の対象にしていない。技術者は成果が事業の形で示され、ある意味はっきりしている反面、学者や小説家と違い個別の成果がはっきり分かりにくく、また書いたものの注目度もあまり高くない。その点で、二宮尊徳の会あるいは会代表の地福進一のように、歴史上で活躍した技術者の執筆したものをまとめ、積極的に出版を続けている活動は、非常に貴重である。筆者はこの会の書籍を2冊所有している2)。新聞への寄稿記事は、直接専門分野や能力を知らない一般読者に内容を分かりやすく説明し、その技術者の考えや業績を知らしめる機会である。何らかの形で記事が公表され、現代の人々に知られるようになるのが望ましい。もちろん、新聞を歴史研究に用いる際の危険として、誤記や記者の知識不足による歪みなど、記事が正しく情報を伝えているかどうかは、常に注意しなければならい。本稿では、台湾日日新報に、台湾総督府所属の技術者数人を考察の対象とし、彼等が寄稿した記事から,その人物研究に資する試みである。記者による取材記事は今回考察の対象としない。だが、寄稿の記事は完全に当人の考えを記載したもの、取材記事は記者を通すため当人の考え以外のものが入ると、はっきり区別できるかというと、必ずしもそうでない。記者に語ることで自己の職務内容や主張を新聞紙上で説明するような記事は、ほとんど寄稿と変わらない。逆に寄稿の形であっても、新聞社が完全に掲載せず省略や変更などをしている場合も考えられるが、これは紙面上ではわからない。迷いもあったが、例えば林業に功績のあった河合鈰太郎は、寄稿でない取材記事に興味深い内容が多いが、今回は考察と対象とするのを見送った。そのような理由で今回は対象となる人物がそれほど多いとは言えないが、別の機会があればさらに多くの技術者、記事にあたりたいと思っている。原文の漢字は現代表記に改め、仮名は原文のままとする。(略)