考量「安居院義道」 その6
考量「安居院義道」 その6 自家に帰ってからの翁は米の搗(つ)き売りを始めた。もともと米屋を営んだことだから別に不思議はないが、不思議なことは表戸をしめて、中でコトンコトン米を搗く。それを裏口で売る。近所の人がこのほど来、不在であったがいつ帰った。また表戸をしめて何をするかと尋ねたところが、所用あって他出したが漸く帰って来た。これから米の搗き売りを始めるから頼む。表の戸をしめているのは、この庄七は失敗している。どん底から立ちあがらねばならぬ。世間を見ると開店時は表を景気よく飾り立てて出発するが、一旦商売が左り前になると戸をしめるのが紋切り型だ。それを考えて追々と工面がよければ表戸を一本づつ開けると答えた。大死一番を実践に移した行き方である。 その商売のやり方を元値商といった。玄米一俵の仕入原価を白米として同一値段で売るのである(*3)。一般の商業経営論からは全然商売にならぬと一笑に付せられるかもしれぬ。当時としては家賃、喰扶持、手間を勘定に入れぬ。ただ空の俵、糠(ぬか)、小米が純益となる細い利潤が成り立つ。売り米には水で増やさず糠も塗らず、升目も正しく値段も安いから、追々と人々が遠くから聞き知って買いに来る。それらの人々に注告されて店の戸を開けるようにして、暮れに至って勘定したれば十両の得が出たという。そのところで翁は世の中の人は高く売れば儲かると思い、安く売れば損をすると思う。しかし高値の店はお客が減る。安く勉強する店はお客がふえる。譲って損なく奪って益なしの教訓から割り出して、「合うようにしても合わぬ、合わぬようにしても合う」格言ようのものを案出して、自分のソロバンを強く握っても思ったようには儲からなぬ。お客にソロバンを預けてもお得意大事に扱えば店は栄える。また商法は売って喜び買って喜ぶ、双方共々喜ぶのが極意である、と大悟し徹底したことを説いている。 いったい元値商いの本質は不可解のものであって、あるいは米商のごときには応用されるかも知れぬが、取扱う品物によっては仕入値で売れば口が濡れぬ心配が起こる。淡山先生は入費を差引くといい、高山老のごとき副産物利得の奉仕的といわれた。元値商いを全然原価販売とすれば利潤はいずこに揚がるか、要はお客本位の物の取次ぎ役に立ち、打算的の壟断のないことを奥義として、後の薄利多売主義に替わるように思われる。この主義が後には我が遠州各地に広まり、至る所に報徳店が現出する。 かく一念発起して一家の正業を執ったものの、悟りきった人の考えと在来の営利に汲々する風俗とは両立しない。ここに至った翁は決然として一家を捨てて周遊の途に就き、一家を廃して万家を興すの豪語を唱え、飄然として郷里を去った。 ○元値商の歌 売る人はなるだけ安く買い出して上手をいうて高く売るらん 買い方の心は誰も同じ事 値も格好で品のよいのを 雑費やら懸けたほれなど引き去ってその値で売れば同じ事なり 現金で元値限りに売る時は 皆下げ銭で足は厭(いと)わじ 現金で元値限りに売る時は 皆下げ銭で遠くから来る 安心なこの商売の味わいをしらねば 急に取りてかかれず *3 元値商は尊徳先生が一般に勧められた商売の方法ではない。伊勢原の宗兵衛は「報徳記」にも登場する商人で、その子孫は現在「茶加藤」というお茶の販売を行っている。「茶加藤」の社長は代々「宗兵衛」を襲名する。享保13年(1728年)に初代宗兵衛氏が現在の場所に茶商を開業し、以来、茶の他に米麦、薪炭、両替商なども行っていた歴史がある。4代目宗兵衛が二宮尊徳の教えを受けた。「売って喜び、買って喜ぶ」という報徳の教訓を歴代の宗兵衛氏が引き継いでいる。茶加藤の屋号は丸に十一と書く。尊徳先生は宗兵衛に元値が十を十で売れば利がない。十を十二で売れば利をとりすぎだ。十の物を十一で売れば相応の利といえると諭されたことがあり、それ以来、茶加藤は○に十一と書いた印を屋号にしたという。さらに尊徳先生はこうも諭されたという。「商売をする人が報徳を守って、利を相応にとり、店の内の品を3品か4品でも元値で売って見なさい。外の品も大きく売れるものだ。譬えば百文の元の品を三百文に売れば、儲けはじかに見えるけれども、これはやっぱり元値に売るのと同様である。なぜならば後に大きく買う人がなくなって売れなくなるから、元値で売るのに十倍劣るのである。酒など4斗樽に、2合か3合汲み入れると樽中が皆動く、一品二品で店中が皆動く道理を考えるべきである。」つまり商人には相応の利をとり、3,4品を元値で売れば、ほかの品も売れることを説かれた。これは現在でも商店などでよく使われている方法である。全ての品を元値で売ることを勧められたことはない。ただし飢饉のときに、「一銭も利を取らずに買い入れ値段で売買して、米や麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい」と、人を助け救うことを心掛けるよう説かれたことはある。文政12年2月吉日付けで、二宮尊徳が母の実家の当主、川久保太兵衛にあてた手紙がある。表紙に「五常講」、裏表紙に「川窪太兵衛」と記された通い帳式の簿冊に、5ページにわたって書き込まれている。そのあらましを現代訳で紹介する。(佐々井典比古氏現代文訳「尊徳の裾野」p269より)「このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来てみたところ、はなはだ困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。そこでつらつら考えたのはいま私はかたじけなくもご城主の命によって、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高4,146万石余、宇津?之助様知行所の復興にあたっている。享保年中から追々困窮して、文政4年には収納が米1,005俵余、畑方金127両余と、わずか1,000石相当にしかならず、ご勤仕もできないありさまとなったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられたのだ。そこで文政5年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が1,900俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。このように功あるこの身は、すなわち父母のたまものであって、全くわが身ではなく、父母の陰徳による。その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。その本が乱れて末の治まるものがないように、人生、孝行より大事なものはないが、では、何をしたら孝行になるのか?このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。このように信ずるとき、ふと天の命がわが心中に浮かんだ。それはほかでもない。桜町の仕法のように家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。しかるに川久保家では、代々のうち 奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天のにくみを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑山林家株財宝衣食を天から受け得たいと願うならば、身をちぢめ、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天のお恵みを受けるしかない。さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる。ところが昨年文政11年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家(やまが)へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買い入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、神儒仏の心は一つ。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」