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カテゴリ:私生活
私が病院へ一人で行くようになったのは、中学1年生の時からでした。以来、父親の血液を必要とするとき以外は、常に、初めて行く病院でも一人で行きました、その頃の日本ではまだ、インフォームドコンセントの概念などは、考えも及ばない時代でした。当然ですが、血友病患者であっても、血友病治療を必要としない病気にもかかります。ただ、歯科医だけは治療に出血を伴う場合があるため、虫歯があっても逆に父親から行くことが禁じられていました。
中学生の時は、1年生が中耳炎で一回5Kmほど離れた耳鼻科の個人病院で、3年生の時が気管支炎で二回8Kmほど先の日赤病院で、いずれも初めて行った病院で、それぞれ一人で診察を受けました。ただ、受診の際は前もって血友病であることを医師に伝えておくように、と父親から言われていました。この時以来、私は誰にも頼らず直接医師と向き合うことになりました。 中耳炎の時は、耳垂れが始まったことで、気管支炎は咳や痰が長引いていたことで、いずれの時も父親から悪化する前に病院へ行くよう促されました。中耳炎の時は液体の薬を耳の中に入れられ、気管支炎の時は飲み薬を処方されたことが思い出に残っています。気管支炎で二度目に病院へ行った時、医師は私の胸に聴診器をあて、「ボコ、ボコという音が聞こえなくなったから、もう大丈夫。」、などと言ってました。 伊勢崎市の北部にあった耳鼻科の個人病院は有名で、朝から一日中混み合っていました。我が家から病院までの距離は5Km程度とそう長くはないものの、交通の便が悪く、朝、父親にオートバイで病院まで送ってもらいました。父は、病院の受付けを待っている人たちに、私が診察してもらえる時刻を予測してもらい、出勤時刻が迫っていたため慌ただしく帰り、私は一人、診察してもらえるという午後まで待ちました。そして、診察が終わり、空腹に耐えながらかなり長い時間、父親の迎えを待ったことを記憶しています。日赤病院へは前橋の市街地にあったためバスの便が良く、あまり不自由を感じませんでした。今では、2つの病院とも当時あった場所に存在していません。 21世紀になって、あまり語られなくなった用語に、「医療(医者)の常識は世間の非常識」という言葉がありました。まだ、インフォームドコンセントの概念さえない時代のことで、一時、メディアでも盛んに語られた時期がありました。そのころは、まだ癌の治癒率も低く、大勢の癌患者本人が、はっきり病名を告知されないまま亡くなっていった時代でした。母親も私が37歳の時亡くなりましたが、母には大腸癌であることを最後まで伝えていません。正に薬害エイズが表面化したのがこの頃で、多くの医療現場で医師と患者の関係が対等ではありませんでした。日本の大勢の血友病患者は、素直に主治医の治療方針に従い、HIVに感染させられました。さらに、血友病患者にHIVを感染させた医師の多くが、患者に知らせず勝手にHIV抗体検査を行ったり、患者への告知義務を怠ったりと、これらも大きな問題になりました。 モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年04月04日 13時13分03秒
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