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この年代の爺さんは、死ぬまで価値観なんか変わらへんよ。
そんなん、当たり前ですわ。 口に出さんようにする分別くらいは欲しいもんですけどね。┐(´∀`)┌ 『森喜朗オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の女性差別発言への批判が止まない。 森氏側は早期の幕引きを狙って、発言の翌日には会見を開き「謝罪」「撤回」を行ったものの、SNS上では抗議集会が次々立ち上がり、炎上はさらに拡大し、鎮火する様子は一向に見えない。 菅義偉総理大臣の長男と総務省との接待疑惑を報じた「文春砲」をも吹っ飛ばす森氏発言の破壊力は、これまで「子どもを一人もつくらない女性が、好き勝手とは言っちゃいかんけども、自由を謳歌し楽しんで年取って、税金で面倒見なさいっていうのは本当はおかしいんですよ」(2003年)や、いわゆる「神の国」発言、「(無党派層は)関心がないといって、寝てしまってくれればいい」(2000年)、さらには首相在任中の2001年、ハワイのえひめ丸沈没事故の発生時にゴルフ場にとどまったことを指摘され「私が(官邸に)行かないことで、何が遅れたのか」と逆ギレし、首相退陣に追い込まれた発言等々、森氏のこれまでの失言の集大成とも言えるものである。 「森萌え」の正体 女性を「一人前の人」として扱わず、「女性活躍」といって委員等にはするものの、「わきまえた女」と持ち上げながらものを言わない存在に留まることを暗に強要する。 今、国民が何を求めているのかというニーズにも、何に喝采し、何に怒るのかと言った国民感情を捉えることもできていない。その上、国際的な潮流にも鈍感だ。 今回の発言に含有する激しいミソジニーはもちろん、会見でのふてぶてしさは、森喜朗ならびに社会のあちこちに居座る「森喜朗的存在」が、「そこそこの先進国」と認識していた自国・ニッポンがなぜ、巨額を投じてアベノマスクを配ったり、一連の給付金や助成金の支給に驚くほどの無駄な手間暇費用をかけたり、結局、感染拡大ともなった「GoToキャンペーン」等、一連のコロナ対策の迷走ぶりの主因だったことを露わにした。 菅義偉総理、また森喜朗元総理のような男女平等や人権感覚が欠如した旧来型の威嚇によるリーダーシップをとる政治家は、コロナ危機においては機能しないのだ。 にもかかわらず、政治の世界ばかりではなく、スポーツ界でも、また、ありとあらゆる分野で森喜朗的存在がいまだ実権を握り、真のジェンダー平等を阻む「開かずの鉄扉」となってきた。 SNSではこれまでフェミニズムを語ってこなかった人々も参戦して、森批判は同時多発的に行われている。発言がおかしいというのは大前提ではあるが、その語りの様相は、杉田水脈の「女は嘘をつく」発言のときとは大きく違う。 なぜ、これほどまでに森喜朗を語りたいのであろうか。これはもはや、無意識での「萌え」の一種ではないかとさえ思える。 森への批判は、不発に終わった安倍叩きの延長上にあるのではないか。 菅総理も森氏同様の「非エリート・極道感」をベースにし、官房機密費等による金銭的優位性を背景に「男だろ!キャラ」を前面に出すことで人を従えてきたが、最近の「読めない」「語れない」といった、政治家としての最低条件をも満たしていないことが露呈した。 すると、キャラ変を行い、むしろ蓮舫氏の「いじめっこキャラ」を引き立たせる戦法に出ているために、批判がしにくくなっているというのも興味深いところである。 結局、森喜朗氏は、コロナ禍で攻めても罪悪感を感じないほぼ唯一の存在となっているのではないか。「森萌え」は森喜朗という、わかりやすい、あと一歩で倒れそうで倒れない巨悪を必要としているからこそ、なのである。 孫娘との会話に見る「ジェンダー問題」 「女房は冷静に私の行動を見てくれていますが、孫娘が猛烈に怒っていて。寝られずに会社も休んだという。さっきも電話してきて、こう言われました。『すぐ辞めて。もう命を削ってまで仕事をしなくていい。おじいちゃんが辞めなければ、私が会社を辞める』と。申し訳ないとわびつつ、ばかなことを言うなと返したが、ショックでね。つらいです」(毎日新聞 2021年2月6日) 森氏は上記のように今回の自分の発言について、撤回するきっかけとなったのは妻や孫娘との会話であることを吐露している。 政治家が家族の中の女性に怒られたと、失言や不倫等での謝罪の際に、妻や子ども等女性を使うというのもお決まりパターンである。 なぜそれを他の人に言われて気がつけないのだろうかという問題は、「ドメスティック・イデオロギー」で説明がつく。 「ドメスティック・イデオロギー」とは、近代国家の成立に伴って出現した、人間を男性と女性に二分していく仕組みである。 竹村和子は『フェミニズム』 (岩波書店)で、さらに二分した男女は、男には公的領域、女性には私的領域を振り当て、さらに女を、家庭の中のまともな女と、家庭の外で働くいかがわしい女、また経緯を払うべき国内の女と、敬意を払わなくても良い国外の女とに分断するものであると説明している。 鈴木彩加はさらにこれを『女性たちの保守運動: 右傾化する日本社会のジェンダー』(人文書院)で、「家庭外/国外にいる女性は「いかがわし」く「敬意を払わなくてよい」対象とされてきた」と指摘している。 つまり、女性の中でもドメスティック、つまり家庭の中、男性の囲いの範疇にいる女性は「わきまえた女性」で敬意を払うべき存在、一方で、その枠を外れ、家庭の外で働く女性は「わきまえない女性」でいかがわしいというのだ。 森氏に限らず、家父長として権力を振るう男性は、家族である女性たちが社会において○○の妻、○○の娘、○○の孫娘というのが価値として成立させることで権威を保つことができる。 それが家長が恥ずべき存在として認識され、○○の娘の価値が低下したならば、家長の権力は機能しなくなる。つまり「家長」の役目が揺らいだからこそ、森総理は自らの発言を「謝罪」「撤回」するべきものと悟った、というのである。 その妻や孫娘たちはどのような思いで、この言葉を発したのだろうか。 「すぐ辞めて。もう命を削ってまで仕事をしなくていい。おじいちゃんが辞めなければ、私が会社を辞める」という孫娘の言葉が正確に表現されたものだったならば、彼女が代弁したのは、森氏が誹謗した女性たちの心情ではない。 あくまでも、「命を削って仕事をしている森氏の立場を肯定」し、「(愛する祖父)森氏の命を温存するために仕事を辞めてくれと願い」、そうでなければ自分が仕事を辞めるというソフトな脅しをしてまで、祖父の身体を気遣っている風である。 拡大して解釈しても、祖父森氏の発言により、「会社での自分の立ち位置が危うくなったではないか。撤回してくれなければ非難は続き、自分の居場所と立場を失う。さっさと撤回しろ」……つまりそれは、あくまで「森喜朗の孫娘」という立場の価値付けの話であって、森氏の時代錯誤のジェンダー感覚をアップデートする類の言葉ではない。 政治家の妻や家族は一蓮托生業だ。夫の、父の位置が自分の価値と直結する。森氏の家族も、これまでも失言で恥ずかしい思いをしてきたものの、一方ではなんらかのプラスがあったからこそ、夫の、父の誤りを根本から正すことはなかったのだろう。 今後の人生に「森の孫」という負の遺産により、個別具体の差し障りとして出てくる可能性が出たときに、その中身はわからないが、ようやく真剣に意見したということか。 重ねて言うが、電話の内容が正確かどうかはわからない。森氏一流の焦点はずしであるとも思う。しかし、森氏は、こうして、森喜朗の妻、娘、孫娘の話は聞くが、フェミニストの話には耳を傾けない。まさに、「家庭内/外」の発言を区別して、「わきまえた女」の意見は聞くが、外の意見は「いかがわしい」から聞かなくていいと思っているのであろう。 ラリーにならない記者会見 森氏の場合、ドメスティック・イデオロギーの中で、男性にも年齢で区別をする体育会の論理も加える。最も顕著に表れたのは、記者会見の場である。 会見での記者との質疑応答で、終始主導権を握ったのは83歳の森喜朗氏の方だった。森氏は「長老」として、自分より年が若い記者たちも同等には扱わない。「オンナ・コドモ」の扱いをする。記者が真面目に、忖度せずに応えれば応えるほど、溝は深まる。 森氏が質問の答えを返したときに、記者が一瞬、言葉に詰まるのがわかる。優秀であろう記者たちは、今までの人生で経験してきた会話のラリーの経験にはない、思わぬ方向からボールが飛んできて、すっかり体勢を崩されるのである。 森氏はこうして政界でも、スポーツ界でも蛇の道を歩きながら、その地位を確立してきたのだろう。弁護士でフェンシング選手としてオリンピック出場経験のあるIOCのバッハ会長なども、同じカテゴリーに入るのかもしれない。 いわゆる単なる学歴エリートでは考えつかない奥の手。日々、会食文化で培われた運動神経である。 皮肉なことに、アドリブが一切効かず、原稿を読むことすらこなせない菅総理との差も見せつけた。記者とのすれ違うラリーの応酬は、長年、失言を繰り返しながらも、結局は鉄扉を動かすことができてこなかったこともすり込んだとも言える。 歴史の必然としての失言 では、こうした森喜朗的社会が続いていることを示している。いつか決壊する日が来るのだろうか。 一つは「わきまえている」とされる彼女たちの中にも分断があり、「わきまえているふり」をしている人と、実際に言論を封鎖され「わきまえている」とされている人々である。彼女たちこそ、フェミニズムがともに闘うべき人々なのではないかとも思うが、今回の騒動を通じてどうつながるのか、分断圧を乗り越えるかも、大きなテーマであるとも言える。 同様の考えなのか、いや、そうではなく、早くポジションを変えるべきなのか。稲田朋美氏が自らを「わきまえない女」とカテゴライズしているのをみると、これまで生存のために男性側の代弁者として活動し、その庇護にしか、自分の居場所を確保できない女性たちが、逃げ出しているという現実を見ることができる。 コロナ禍で、渦巻いている、どこか昇華されない思いが、一気に噴き出しているのかもしれない。森氏が辞めたらすっきりするのだろうか。少なくとも小さい風穴は空く。同じような発言をしたら、責任を取らされると威嚇的な意味合いはあるだろう。 しかし、森氏が退場しても、根本的には変わらない。「森萌え」は自分が言われた体験があるからこそ、激しく炎上したのである。森喜朗氏が放った言葉を受け止めた人々は、自身の過去の経験とシンクロし、エビデンスに基づかず一方的に非難されたり、ものを言う女性や若者が排除されるといった理不尽に対し、現実の生活の中ではいまだ言えない言葉や思いを投げつけると言った疑似体験ができたとも言える。 次は自分の身近なところでの「森萌え」へと転換しなければならない。わきまえていようといまいと、女性であろうが男性であろうが、共通の不全感を持つものはともに、今まで違和感を持ちながら、愛想笑いをしていた「森喜朗的存在」に対して「違うと思います」と言ってみることだ。森氏を批判する際に、自己批判と自己変革が伴わなければ、結局社会は変わらないのである。 不用意なひとこと、ふたことが、ミラーボールのように回転し、次々と日本の課題を照射する。そういう意味では、森氏の失言は歴史の必然だったとも言えよう。』 この手の正しさは、その時代時代で変わっていきます。 今、皆が血眼で批判しまくっている価値観なんて、世界史上では、つい最近出てきた考え方に過ぎません。 だから、無視して良いという意味ではありませんが、この価値観も絶対ではありません。 ひょっとすると、100年後には森会長の発言の方が正しくなるかも知れませんよ? その程度の、一過性の価値観だと思いますけどね。(;^_^A 唯一正しいと言えるのは、謝罪している者に、死ぬまで鞭打つかのようなネット上の批判には絶対に正義は無い、という事。 調子に乗ったアホなボランティアの辞退騒ぎなどは具の骨頂です。 これらの愚行は1万年経とうが明らかに間違っていたと言われ続けることでしょうね。( ̄^ ̄) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 11, 2021 01:39:19 PM
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