南包の風呂敷
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芸能20
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俳句を読む1
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『ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記(ジョン・タートルトーブ) 』見る。久々にこういうハリウッド映画を見る。インディ・ジョーンズの換骨奪胎である。でも、これがシリーズ2作目。黄金伝説は何処にもいつの時代にもあるのだろう。007も「ローマの休日」も出てくるサービスは満点。そこがディズニーか。 ヘレン・ミレンが出てきたので、びっくり。他にも、前作からのハーヴェイ・カイテルやジョン・ボイト、エド・ハリスなど役者が中々良い。
2008.01.14
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『やわらかい手』いかにも、イギリスらしい映画。難病に罹った孫の手術のためにお金を作るおばあちゃんが、主人公がマリアンヌ・フェイスフル(水野美紀に似ている)の扮するマギー。もう年をとっているし、特別な資格も昔取った杵柄も無い、普通の家庭の主婦がどうやったらお金を稼げるか?この映画は、そのアイディアが奇抜だが、さもありなん、である。お金を作るために、マギーは借金を頼んだり、職業斡旋所にも行ったりする、だがすべて断られ途方にくれる。そのとき「接客業募集」の張り紙を見かけ、勇気を出して、面接を受けるが、その仕事は所謂風俗であり、自分には出来ないと断る。 しかし、家族のためにお金が要る。マギーは面接で言われたお金の多さに気持ちが変わり、仕事を始める。 マギーの手は男たちにとってまさに神の手。その手は、イリーナの掌(IRINA PALM)と名づけられ、列を作って男たちが並ぶ。しかし、孫の手術費用をためるには時間が無い。仕方なく、マギーは店のオーナーに前借をする。大金を持ってきた母に不信を感じた息子にその仕事がばれる。と同時に、近所の奥様連中にも知られることに。 遂マギーの存在はついには神々しいものを感じさせるところまで表現されている。ラストシーンも大人の味で素晴らしい。 これを見ている途中から『ヴェラ・ドレイク(マイク・リー)2004』と重ね合わせていた。
2008.01.13
硫黄島からの手紙麦の穂をゆらす風明日へのチケット太陽リトル・ミス・サンシャイン六ヶ所村ラプソディサラバンドそれでもボクはやっていない紙屋悦子の青春蟻の兵隊バッテリーパフューム ある殺人の物語善き人のためのソナタ合唱ができるまで世界最速のインディアン今宵フィッツジェラルド劇場でハンニバル・ライジングクィーン絶対の愛ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習(ラリー・チャールズ)』パッチギ!Love&Peaceあるスキャンダルの覚え書き選挙プレステージそれでも生きる子供たちへリトル・チルドレンヒロシマナガサキダイハード4.0ブラインド・サイトラジオ・スターTOKKO 特攻遠くの空に消えた長江哀歌HEROめがねブレイブ・ワンこの道は母へとつづくマイティ・ハート 愛と絆やじきた道中 てれすこ椿三十郎いのちの食べかた 以上の41本。赤文字が、出来のよいと思った作品または、もう一度見たいと思う作品。12本ありました。長江哀歌は2度見ました。
2007.12.31
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我々が日々口にする肉や野菜。マーケットでパックに詰めて売られている食料品は、どこで生まれ、どのように育てられ、食卓にやってくるのだろう? この映画は、そんな疑問に答えるドキュメンタリーだ。 ニコラウス・ゲイハルター監督とそのスタッフは、ヨーロッパの大規模食料生産工場を巡り、肉、魚、野菜、果物など様々な食品の生産過程を追う。極限まで機械化された中でのマシーンと人間の連携ぶりは、思わず見とれるほどの精妙さだし、色鮮やかな果物が画面を埋め尽くす様子は絵画のように美しい。岩塩を取りに行く地底の空間などSF映画さながらの別世界だ。次々と映し出される光景は、視覚的にも興味尽きない。 その一方で、成長をコントロールするための薬品投与や、狭いケージに押し込められた生き物たちの姿も、映画は隠さず映し出す。人間の限りない食の欲望を満たすためのいのちの管理。全食料の6割を輸入に頼る我々にも深い関わりがある、必見の92分。と、名古屋シネマテークのパンフレットにある。ナレーションも字幕もない、動く写真。まさにこれこそMOVIEの原点かもしれない。『いのちの食べ方』英語のタイトルは、「Our Daily Bread」。日々の糧という意味。このタイトルのほうが映画には近い。日本のタイトルはやや扇情的だと思う。
2007.12.15
新しい『椿三十郎』を見た。概ね、OK。理由に一つは期待していなかったからだろう。それと、脚本が同じ、カット割りも前作とほぼ同じだからか?織田裕二はよくやっていた。しかし、どうしても前作のことが頭から離れない。見ている間中比較している。簡単な比較を・・・、前作は1962年三船敏郎=42歳仲代達矢=30歳加山雄三=25歳今回は2007年織田祐二=40歳豊川悦司=45歳松山ケンイチ=22歳この中で、驚くのは仲代達矢の年齢だ。映画を見る限り、トヨエツと大差はないように見える。しかし、1.5倍の差だ。これは驚くべきこと。ラストシーンは意見が分かれるところだろうが、私は支持する。(一部を除いて)前作と切り離して見るには努力が要るが、もう一度見ることが出来れば、それが出来るように思う。
2007.12.08
これまで数多くの映画や芝居のモチーフにされてきた「弥次さん喜多さん」コンビと、足抜けしたおいらんが珍道中を繰り広げる時代劇コメディー。監督は『しゃべれども しゃべれども』の平山秀幸が務め、さまざまな落語ネタを散りばめて庶民の笑いと人情を描き出す。弥次さんには世界的な歌舞伎俳優の中村勘三郎、相方の喜多さんには名優柄本明、ヒロインお喜乃を小泉今日子が演じる。3人が見せる息のあった掛け合いに注目。と、映画館のサイトにある。(太字が引用)開巻早々、心中シーン。おさん茂兵衛ならぬおさん与兵衛。演じるのは淡路恵子と笑福亭松之助。松之助の声は独特なのですぐ分かったが、淡路恵子は顔をよく見るまで、すぐには分からなかった。そして、大阪(大坂)の町。そこでの、かわら版売りが、ちゃんばらトリオの南方英二、続いて白洲では間寛平と続々と関西の芸人が登場する。これはそういう方向で行くのかと思わされる。というのも、事前にそれなりに知っていたのは、中村勘三郎と柄本明と小泉今日子と笹野高史が出ることくらいだったからである。しかし、弥次喜多は江戸。だから、あくまでそこは、「てれすこ」を登場させる、エピローグ。さて、落語はあまり詳しくは無い。この映画は落語のエピソードをつなぎ合わせて作られているとなんとなく分かる。「てれすこ」がそうである。あと分かったのは「狸賽」「野ざらし」くらい。浪人夫婦の詐欺も落語にあるだろうし、小泉今日子演じる花魁が品川宿にいるのは「品川心中」?があるのか、と。最後は「こんにゃく問答」になるかと思えば、そうはならなかった。どちらかといえば他愛もない映画。真剣に人の生死を、生きている意味を、純愛を、そして、昔を懐かしむことも、いたずらに人を驚かせたりすることも何にもない。そこにこそこの映画は意味があり、存在価値がある。何かで最近読んだ。映画の評価を泣けたとか感動したとか、笑えたとか、そういう基準で評価するらしい。それもジャーナリズムがそういうことで映画を見ているらしい。その伝で言えば、かつての「寅さん」映画も大いに笑えた。だが、その種の笑いが今はあまりないように感じる。この「やじきた道中てれすこ」は久々に「寅さん」での笑いがあった。そういえば、同じ話を何度聞いても落語は面白いというように寅さんは落語のように作られていたと思う。日本の笑いの一種である、落語を底に、「やじきた道中てれすこ」は上手に作られている。再度声を大にして言いたい、これは他愛もない映画である。これは他愛もない映画であると。
2007.12.02
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監督マイケル・ウィンターボトムは『日陰のふたり』を見たくらいであとは見ていない。『日蔭のふたり』は子供の自殺のシーンは衝撃的で今でも覚えている。最近の『リトル・チルドレン』ですっかり大人の女になったケイト・ウィンスレットの演技も忘れられない。さて、この『マイティ・ハート 愛と絆』は、9.11の後、パキスタンに来た二人のジャーナリストの物語。二人は惹かれあい一緒になる。彼女のおなかには五ヶ月になる子供がいる。ある日、夫は取材に出たまま戻らない。拉致されたのである。この映画の見せ場はここにある。ドキュメンタリータッチで、事件を見せていく。そして、・・・。カラチを去る時の、アンジェリーナ・ジョリーがボストンバッグのファスナーを締めるところが、印象に残った。いかにも、無念という感じが良く出ていた。その他にも、彼女の演技には目を瞠るものがあった。この映画のように、中東の国々の抱えている問題は良く分からない。だが、人が人として生きる限り、自己の立つ位置をはっきりとしておくべきと今更ながら、改めて考えさせられた。タイトルは甘いが、硬派の映画である。
2007.12.01
『この道は母へとつづく』タイトルが損をしているか、それとも得をしているか、微妙である。このタイトルのまま想像すると、単なる甘いお涙頂戴的な映画に思える。そういう意味では、損をしている。しかし、その甘さを求めてくる客が多いだろうという営業的な読みが当たれば、これはタイトルがうまくいったことになる。私の場合普通に考えたらこの映画は選ばない。今回は映画検定のテーマにあり、公開が遅かったことと、仕事の都合もあり、この作品を選んだ。それは、正解だった。6歳のワ―ニャの存在そのものが、この映画の大きな位置を占めている。孤児院で養子の話もあり、そのほうが幸せになれると思われるのだが、あることをきっかけに母親を探す旅に孤児院を脱走する。孤児院では、養子縁組はビジネスとして機能しており、院長もブローカーであるマダムと呼ばれる女も脱走されては元も子もなくなる。だから、必死にこのワーニャを追う。マダムは車で執拗に追いかける。その運転手も追いかける。孤児院で様々な体験をしてそれなりに強かさを身に着けているワーニャは、脱走後も大人たちと上手く付き合い、そして追ってくるマダムたちを上手くやり過ごす。目を見張るシーンは終わりにいくつか用意されている。前半の孤児院のシーンの動きの少ないところから、脱走後ドラマが動き始めると俄然面白くなる。それは、サスペンスフルになり、脱走劇になるからだろう。子供を取り上げた映画では最近の「それでも生きる子供たちへ」を思い出す。ワーニャもそれでも生きる子供だ、母への道をたどり続ける。もうひとつ思い出した映画がある。それは「あの子を探して」である。行方不明の子供を捜す少女の先生がTVインタヴューをうけ、子供が見つかるところは思わず涙した。この「この道は母へとつづく」もそれに近いシーンがあった。やはり、どうしてもタイトルの甘さが、損をしていると思う。以上は、「映画検定」の評論のテーマに基づき書いたものです。
2007.11.12
ジョディ・フォスターの『ブレイブ・ワン』でした。あの、『クライング・ゲーム』のニール・ジョーダンとは思えない、平凡な出来。ジョディ・フォスターのための映画なんだろうな、と思った。それでも、少し書いておくと、ジョディの婚約者がインドの人というところは、新しい?悪いやつを片付けるのは、『デス・ノート』と同じ気分。ラスト云々は、アイディアとしては、あるんだという程度のことだが、なるほどと思わせる。かつて『スピード(ヤン・デ・ポン)』で、人質をとられて銃を捨てろといわれたら、人質を撃てと、いったアイディアも同種だと思う。
2007.11.04
DVDで『オアシス(イ・チャンドン)』を見ました。ひとこと、凄いです。衝撃的です。こういう世界を韓国映画はまだ持っている。この純愛は、背筋が寒くなるほどの、愛です。最近では、『悪い男(キム・グィドク)』を見たとき以来の衝撃です。主演の2人がよい。男がソル・ギョング、女がムン・ソリ。脳性麻痺のムン・ソリの演技は、どういう風に学んだのだろう。実際の脳性麻痺の人とも思える迫真の演技。そして、その演技から、普通の状態に戻る時の、空想での演技への移行の自然さも驚く。白いはとが、部屋の中を飛び回る、幻想的なシーン。光が蝶に変化するシーンなども、目を瞠る。もし、レンタルDVDに、この『オアシス』があれば、是非見て下さい。まだまだ、侮れない韓国映画。
2007.09.30
『HERO』と『めがね』を見ました。まずは、『HERO』連続TVドラマであったことを、不覚にも先日まで知らなかった。TV好きを任ずる自分としては、いかにも迂闊であった。そして、昨日(2007/9/23)『HERO』のTV番組を見て、本日、映画『HERO』を見た。亀山千広プロデュース。言うまでもなく、『踊る大走査線』の検事版。昨日のTVを序章とすれば、映画は本編。今回の事件も、最後まで諦めない男、久利生公平は、勝利する。その結果、大政治家は逮捕。物語の骨組みは、何処までも、『踊る大走査線』と同じ。東京地検特捜部と城西支部が、警視庁と湾岸署との関係に匹敵する構図。それが、亀山節と、言ってしまえばそれまでだが、この映画『HERO』は、渋みや苦味に欠け、甘ったるく、歯ごたえもない。木村拓哉も松たか子もお気に入りの大塚寧々も松本幸四郎も好演だ。松本幸四郎は「王様のレストラン」からの常連だからか、先日のTV版『生きる』より生き生きとしている。公平の粘り強さが事件の真相を見極めるが、物語は見る前からどう進むかは分かる。だから一つはこの映画は、TVで培われた役者の連係プレーで見せるものだと思うが、代議士の森田一義は、いかにも不似合いである。鈴木雅之の『世にも奇妙な物語』が縁なのか?こちらの方は失敗だ。彼では、政治家としては小物にしか見えない。むしろ石橋蓮司の方が、大物にに見える。この役をもし選ぶことが出来るなら。民主党の小沢党首か自民党の青木参議院幹事長、森喜郎元首相、くらいである。そうなったらこの映画はもっともっと、力を持ったであろう。『めがね』は、近いうちに。これは『かもめ食堂』が序章なら、本編といえる傑作。必見である。
2007.09.24
DVDを借りて、『昭和残侠伝 血染の唐獅子(マキノ雅広)』を見ました。久々に高倉健、池部良コンビの殴りこみシーンなど懐かしく思いました。見ていて、変なのですが、殴りこみのところで、健さんは匕首を持って出て行くのです。健さんは、匕首ではなくいつも日本刀なのです。(鶴田浩二は匕首)そんな所が気になってしまい・・・。予告編も同時に見ることが出来ました。予告編は、本編とは違うことが今回改めて確認できました。予告編は、普通、その映画の助監督が作ります。この時は寺西国光と言う人ですが、よくは知りません。本編とは違うという所を、一つ。健さんの刺青が、本編と予告編では全く違いました。といった具合。これの、見所、2つ。1、火消し・鳶職を扱っている所。だから、この人たちはヤクザではなく堅気。義理や人情や筋を通すことは人として同じ。2、藤純子と高倉健の絡みが、美しい。ちょっとくどいと思うが、綺麗だ。殴りこみの後、初めて唐獅子を見せるところは、いかにもマキノ演出、上手いと思った。久々に、やくざ映画を堪能しました。
2007.09.23
2006年ベネチア国際映画祭金獅子賞グランプリ獲得。『長江哀歌(ちょうこうエレジー)ジャ・ジャンクー』チラシには、大河・長江の景勝の地、山峡。そのほとり、二千年の歴史を持ちながら、ダム建設によって、伝統や文化も、記憶や時間も水没していく運命にある古都を舞台に綴られる2人の男女の物語。(後略)と、ある。てっきり誤解をした。この2人のロマンスもある話かと見ていた。全くそうではなかった。だから、この映画の素晴らしさはそこに出てくる人、すべての人へのまなざしで成り立っている。確かに、分かれた人に会いに来た2人が中心にはなっているが、それ以上に、画面に現れるすべての人、現象、風景が見るものをして、感動へ誘う。カラーを抑えた撮影〈現像)も、この静けさをより伝えている。中国は、万博とオリンピックで沸きかえっているのかも知れないが、それらとはへだったった所は、いかにあるのかも、その一部が伝わってくる。ジャ・ジャンクーは、それにじっくりと視線を合わせ、見るものに訴求してくる。あまりにも、時間の流れが緩やかである、それが退屈ではないのは、長江の流れもすべてをゆったりと流しているからかもしれない。マスター・ピースである。
2007.09.22
今日は、1日。ファーストデー割引で、1,000円。『遠くの空に消えた〈行定勳)』を見てきました。朝の10時50分の回。子供向けの映画と言う認識なのだろう、子供連れが多かった。夏休み最後ということも。結論は、子供たちの友情映画。この手の映画は色々あるので、新鮮味はない。この前の『バッテリー〈滝田洋二郎)』も、そうだ。『バッテリー』を、思い出し、地元唯一の酒場に、日活無国籍アクションを思い出し、女の子のポーズに『天空の城ラピュタ』を思い出し、隕石の動きに『太陽に灼かれて(ニキータ・ミハルコフ)』を思い出した。様々な映画を見てきた行定監督の思いが詰め込まれたのだろう。とはいえ、出来は普通。65点。
2007.09.01
叔父が特攻隊員の生き残りだったことを、彼の死後に知った日系アメリカ人監督リサ・モリモト。自爆テロを「カミカゼ攻撃」と呼び「TOKKO」のイメージを重ねるアメリカの風潮に違和感を抱いた監督が、特攻隊だった生存者たちに取材を重ね、彼らの偽らざる心情を映し出した迫真のドキュメンタリー。と、シネマスコーレのWEBにある。身内にカミカゼ特攻隊の生き残り(?)が居たことで、身近になったカミカゼ特攻隊を調べ始める。4人の生き残り(?)にインタヴューする。中でも、印象に残ったのは、この「神風特攻隊」を考えたのは、戦争を終わらせようと考えて行ったのだということ。こんな非道な作戦をするということは、これ以上戦争をしてはいけないことで、当時の天皇〈昭和天皇)に、戦争終結の決断をさせたかった、と。しかし、天皇はもっと頑張れと。原題は、【WINGS OF DEFEAT】である。「敗北の翼」とでも訳せばよいのか。このカミカゼ作戦で、戦争が日本側に好転するとは多くの関係者が思ってはいなかった。資源力に米国より劣る日本が勝てるわけが無い。神風なんて、とんでもない発想だと。しかし、それがヒステリックになった時の人間の行動なのも否定できない。シビリアン・コントロールがない当時にしてみればやむを得ないことだったのだ。証言者の一人はラジオで米国の放送も日本の放送も同時に聞きその差に疑問を持ったという。撃沈された艦船の数の違いなどからの疑問だ。日本のあちらこちらで、戦争に対する疑問がふつふつとわきあがっていたのだと思う。しかし、一方で日本は決して負けないと信じて疑わなかった人たちもいたのだ。それが、世の中であり、地球であり、人類だ。今の地球の危機も同じだと思う。さて、あと6ヶ月早く戦争が終わっていれば、どれほどの命が助かったか?の証言。すべてが、天皇の責任だと。これほどまでに、はっきりとした証言は、稀ではないのか?『ゆきゆきて神軍』の時の衝撃以来だ。今年は、太平洋戦争のドキュメンタリーをこれで3本見た。『蟻の兵隊(池谷薫)』『ヒロシマナガサキ(スティーヴン・オカザキ)WHITE LIGHT/BLACK RAIN』『TOKKO-特攻(リサ・モリモト)=WINGS OF DEFEAT』。うちの2本がアメリカ映画だ。これまで見ることの出来なかった実写フィルムが見られた。これも、今までになかったことだ。さて、今の日本はどこに行くのか?戦争は愚かだ。分かっていても・・・、なんていうのはもっと愚かだ。今の政府は何を考えているのか?戦争に一歩でも近づくようなことをすれば、またまた、国民は皆不幸になる。
2007.08.31
「シネマコリア2007」。名古屋では、今日(8/25)と明日、愛知芸術文化センターのアートスペースAで開催される。2日間で4本の映画が上映される。25日は『ラジオ・スター(イ・ジュンイク)』『ホリデー(ヤン・ユノ)』26日は『青燕(ユン・ジョンチャン)』『懐かしの庭(イム・サンス)』そして、26日には映画評論家の寺脇研氏のトークイベントがある。その中の、『ラジオ・スター』を見た。物語は、MBS(放送局)の大賞を取ったほどの、一世を風靡したロックスターが落ちぶれて、地方放送局のDJをすることで、立ち直るもの。特別に珍しい話ではない。ウェル・メイドな作品。だが、この映画で泣けた、笑えた、感動したというものはとは縁遠い無い。確かに、歌手とマネジャーの関係にはほろりとさせられるし、笑わせられるし、感動もするが、今の日本映画にある、人の生き死ににおいての泣ける、感動させられるは一切無い。映画はそもそも、この『ラジオ・スター』でもそうだが、人にある種の感動を与えることは普通だ。作る側にもその狙いはあるだろう。しかし、今どきの映画の感動やらは、どうにも見苦しいものがあり、自然ではない。そこに、面白さがないから、と思うのだ。映画における面白さは、特別なものではない。見て、面白かった。見終えた、その瞬間の反応だ。勿論、面白く感じるか否かは人それぞれだが、その、人それぞれすら存在しない映画が日本映画では、多くなったように思う。ハリウッド作品もそうだ。そのそれぞれは列記しないが、韓国映画には、まだ面白かったが存在する。例えば、『誰にでも秘密ある』や『大統領の理髪師』など。『ラジオスター』を、必見とは言わないが、見て良いとは思わせる。65点の映画だ。会場が、愛知芸術文化センターのアートスペースAで、椅子を並べただけの多目的ホール。今の劇場からしたら見難い場所。前の人の頭で画面が切れる。そういう条件の悪い所であったが、250人ほどの観客。そのほとんどが女性と言うのも、今の映画界の観客の象徴か?
2007.08.25
『ブラインドサイト(ルーシー・ウォーカー)』見ました。簡単にはまとめられない映画です。ドキュメンタリーですが、撮影したものを編集して見せるというスタンスではなく、同時進行的な見せ方をしています。それが、意図されたものか否かは分かりません。撮影する側もされる側もその存在がそこにあり、そこにあるがままに我々観客の前に出されたという感じです。内容も一言でいえるものではありません。ただ、言えることは、盲目の子供たちのエベレスト〈映画の中で子供たちはチョモランマと言っています)登山の話ですが、盲目であることの特殊性が、そこには無く、子供たちが山登りをする、ということの意義が語られていると思います。改めて、後日まとめて見たいと思います。
2007.08.23
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日本映画専門チャンネルで「GHQがつくった日本映画」と銘打ち、5本の記録映画が放送されている。その中のひとつ、『こども会議(1950)』(1947年に制作されている)を見た。あらすじは、民主主義の精神とルールをある小学校の情景を通して示す教育映画。子供たちが議会を開いて意見を出し合い、ささやかな問題を自分たちの力で解決してゆく。雨具がない生徒が多いため雨の日は登校する生徒が少なく、授業もままならない小学校。子供たちはこども議会"を開いて意見を出し合い、雨具のない生徒が雨の日も登校できるよう自分たちで解決策を考え、実行に移す。演出はドキュメンタリー作家の丸山章治。"以上のように、HPで紹介されている通りだ。中で面白かったのは、子供たちが実に生き生きと話し合いをしていることだ。雨具のない子が雨具のある子と一緒に登校すればよいと言う話し合いのなかで、背の高い子と低い子が一緒にはなれない、とか、意地悪な子が居たらとか、もし、傘のある子が休んだらなど、子供たちは真剣だ。それを見ているだけでも面白い。そして、こども会議が生まれる過程も興味深い。わずか25分程度の作品だが、そこには戦後の希望が大きなものだと、しみじみ分かる。昨日の『ヒロシマナガサキ』とは違う意味で、戦後62年を思うことになった。このシリーズは、今月再放送が何度もあるので、このチャンネルを見ることが出来る方は是非ご覧を。
2007.08.12
25年間かけて被爆者の記録をした。『ヒロシマナガサキ』。嘗て公開寸前まで行ったそうだが、米国内の反対があり、実現しなかったと聞く。今回は、全米のケーブルTVで、1ヶ月放送されるという。すでに放送されているようだ。日本のマスコミはこぞって取り上げている。内容は、アメリカにある、当時のフィルムを使うことで、今までに見たことのない映像が見られる。しかし、そのこと自体はどうと言うこともない。当然の悲劇であることの証言以外何者でもなく新たな発見があるわけではない。かつて、広島にも長崎にも行き、見て感じたこと以上の発見はなかった。しかし、被爆者の方々の証言のすべては、胸に迫るものである。驚くのは、日本のTV番組がこぞってこの映画のことを取り上げていることだ。先日の参院選での安倍自民党の惨敗が各TV局の背中を押したのか?そもそも、憲法改正、第九条の見直しについて、大方のマスコミは積極的に賛成ではなかった・・?だが、支持率の大変高い、安倍政権に真っ向から反対をする姿勢がなかった。しかし、今回の参院選での自民党惨敗で、安倍政権の支持率は急降下し、その勢いで、憲法改正、九条の見直しはやはりまずい、その意味でも映画『ヒロシマナガサキ』が、示している、悲劇を再度考えよう。しかも、米国においてもTV放映され、米国内でも核問題は話題になるはずだから・・と、こういう見方は天邪鬼だろうか。さて、再度繰り返すと、この映画の力は何といっても証言者による。被爆者の方々の言葉は重い。なおかつ、被爆した体を曝しながらの出演は、言葉にいえない重みがある。エノラゲイの乗組員の話も重要だ。落とした側の思いも今回初めて聞くことになった。証言を集めに集めた監督に拍手である。アメリカだけではなく全世界にこの映画を、という声がある。でも、その前に日本の子供や若者に見せるべき・・・。それは、この映画の冒頭を見れば分かる。是非、中学生や高校生に、学校が積極的に見るように活動されんことを、希望します。
2007.08.11
8/6、キネマ旬報名で、映画検定1級合格者の皆さまへ、と書かれた封書が届いた。趣旨は、『田辺・弁慶映画祭』の審査員募集というもの。この映画祭、今年が初めてみたいです。20名募集。映画祭は、10月4,5,6日〈木曜から土曜まで)。平日だから仕事を休んで行くことになる。mixiでの反応は、行きたいけど、遠い、仕事があるなど、行くという人など、それぞれ。南包は、考え中。仕事を休むことになるから。それも、2日だから・・・。気持ちは行きたいのですよ。
2007.08.08
『リトル・チルドレン(トッド・フィールド)』です。アメリカ版「金妻」といわれていますが、「金妻」のような予定調和はありません。それこそがTVではなく映画だという所以。そして、今、NHK地上波で放送中の「デスパレートな妻たち」をも思い出させるが、こちらは、能天気なコメディー。これはこれで、ぞっとさせる面白さがある。さて、物語は、子供にいたずらを働いた受刑者ロニーが仮釈放されて街に戻ってくる。それを、街の人たちは当然の如く反対する。その姿勢は、自分たちの近くに帰ってこなければ良い。よそにいってくれと言う態度。まさに、自己中心。そういう人たちが出てくるから、リトル・チルドレン=小さな子供たちなのか?主人公の主婦サラ(ケイト・ウィンスレット)は、近所の主婦たちと公園で子守。そこに、子守の父親ブラッド(パトリック・ウィルソン)が・・・。主婦たちの関心は、男のこと。主婦たちはサラを嗾(けしか)け、ブラッドの電話番号を聞ければ5ドルと言う。しかし、書くものがないサラは、ブラッドにハグしてもらいその証明としたが、それ以上にその場は発展してしまう。それを見た事なかれ主義の主婦たちはその場を逃げるように去る。そして、この二人が・・・、と言う話なのだが、受刑者ロニーと母親。元警察官の、ラリー(ノア・エメリッヒ)の強さと弱さ。所詮人間は、弱いものそして、捨てたものではない、というのが、この話のテーマ。それを思うと、サラとブラッドの物語より、むしろサイド・ストーリにテーマがある。監督 : トッド・フィールド出演 : ケイト・ウィンスレット / パトリック・ウィルソン / ジェニファー・コネリー / ジャッキー・アール・ヘイリー最後に、『エデンより彼方に』も、この手の映画。やはり、アメリカの普通の主婦たちは、普通に仕合せで、普通に不満で・・・。日本も同じか?
2007.08.04
『タンザ』(メディ・カレフ )は、少年兵の話。『ブルー・ジプシー』(エミール・クストリッツァ)は、盗みを働き、再三再四、刑務所に戻ってくる子供の話。『アンダーグラウンド』『黒猫白猫』のクストリッツァらしい、テンポが私の気に入りだ。『ビールとジョアン』(カティア・ルンド )空き缶や、鉄屑や、ダンボールを集め、暮らしを立てている兄妹。『シティ・オブ・ゴッド』と同じテンションが魅力的。『アメリカのイエスの子ら』(スパイク・リー )は、HIV感染に恐れる少女。仲間が居ることが救いの一つという話。人は救われなくては・・・、希望がなくては・・・。 『ジョナサン』(ジョーダン・スコット&リドリー・スコット )も、戦争が常に世界のどこかにある。子供はいつも巻き込まれる、一番の犠牲者!『チロ』(ステファノ・ヴィネルッソ)これも、盗みを働く少年。イタリアらしい人物描写。孤独な少年の姿がこの映画の本質。『桑桑と子猫』(ジョン・ウー)。ジョン・ウーはアクションのみかと思わせながら、これはしみじみと良い。金持ちの桑桑と孤児の子猫、どちらも明るい少女。その優しさが伝わる。佳作である。『それでも生きる子供たちへ』
2007.07.17
DVDで見ました。この手のもの(ストーカー映画)はいくらでもあって、その一つ。ジャズフェスティバルや、イーストウッドが恋人と歩くシーンとか長々とあり、何だこれは、である。ドナルド・シーゲルがバーテンダーで出てくることと、ジャズフェスティバルでキャノンボール・アダレーが見られるくらいが、お楽しみ。原題は『Play MISTY for Me』ついでに言うと、「MISTY」はエロール・ガーナー(ピアニスト)の名曲で、この辺が、イーストウッドの趣味で、この映画を取り上げたのかも知れない。恐怖のメロディPlay MISTY for Meクリント・イーストウッド1971
2007.07.16
『プレステージ(クリストファー・ノーラン)』7月1日、ファーストデーで見ました。日曜日と1日が重なることは稀ですが、今日はそんな日でした。だから劇場は混雑していました。さて、『プレステージ』は、そこで行われる奇術と同時に映画が観客に仕掛けるトリック(伏線)が張り巡らされており、それを見逃すと、分からないということになる。正直、自分も分からない所がある。トリックの映像、舞台や当時の風俗など見所は沢山あるが、地味な映画であることは免れない。その地味さ加減を評価するかしないかも、別れる所だ。いかにも大時代的な作り方。私はこういうのは好きだ。わからない所を埋めるためにも、もう一度見なければ・・・、だが時間と金が許さない。もう一度はDVDで、それも吹き替えで見たいと思っている。
2007.07.01
2005年、小泉改革の中での、川崎市市議会議員補欠選挙のドキュメンタリー。立候補者の山内和彦氏は、自民党の候補者公募に通り、自民党の公認を得て立候補する。政治は勿論、選挙も全くの素人の山内さんが、自民党の人たちの応援を受け叱責を受け選挙戦を戦う姿が記録されている。とはいっても、2時間に収められているわけで、それがすべてではない。監督の想田和弘氏は、学生時代の山内和彦氏の友人であり、その縁がこの監督に、この映画を撮らせたのだろう。記録映画にある、ナレーションも音楽も入っていない。ただただ、目の前の風景を取り続け、それを2時間に編集したものだ。想田監督は「観察映画」と名づけている。メッセージ性を排除したと言うことらしい。しかし、編集も撮影も想田監督による限り、メッセージ性を封印したと言うのは、所詮言葉の彩でしかない。嘗て、「ビデオ掛け軸」というビデオ作品があった。それは、桜の木や滝や竹林や海岸にカメラを据え、一切カメラを動かすことなく、その前の風景を音とともに取り続け、それを作品にしたビデオである。これらの作品は『選挙』以上に、客観的だと思うが、それでも作者からのメッセージは見ているもに伝わる。もし、想田監督が、「観察映画」と称して、メッセージ性を封印したと言うのなら、それは思い違いに他ならない。電柱にもお辞儀とか、そういうことはこの映画をみなくても考えれば、いまの選挙の実態ぐらいは予測がつく。この映画で面白いのは、選挙事務所での手伝いに来ている、叔母ちゃんたち(自民党員か支持者)の会話。例えば、共産党の人に選挙の時、部屋を貸したとか、創価学会の人が公明新聞を取ってくれ、お金は出さなくてもよいから、自分で出すからお願いしますとか・・・、そういう内輪話が面白い。また、山内夫妻の車での会話、家での会話などの本音の部分だ。さて、『選挙』は2時間あった。最初は退屈に感じた。もう少し短く90分くらいにまとめれば、さらに鋭い作品になったと思う。
2007.06.30
1974年のイギリス映画です。ただし日本未公開作品。DVDで見ました。それも、パソコンのモニターで・・・。だから、ただ見たという程度でしたが、面白い怪作ですね。マダム・グルニエはパリで高級娼館を営む。その時のパリは、ナチスドイツに占領されていた。そこを舞台にした艶笑劇。ピーター・セラーズがヒトラーや日本の皇族「プリンス・キョウト」、はたまたゲシュタポなど7変化の大活躍。嘗て、TVで放送された時、その「プリンス・キョウト」のシーンがまるまる約15分カットされて、98分が、83分になった、という。このDVDは、95分で、3分短い。DVDの解説に、娼婦と野球拳をする云々と書かれてあるが、野球拳のシーンはなかった。ここがカットされたのだろう。不敬罪が今でも生きているのか?冗談の分からぬ人たちがいる限り、こういうことがあるのだろう。スクリーンで観るのは困難だが、DVDでもよいので、カルト的必見作。因みに、原題は【Soft Beds, Hard Battles】
2007.06.24
『あるスキャンダルの覚え書き』です。タイトルどおり、スキャンダラスな内容の映画。でも、これは、ホラーです。でも、先が読めてしまうので、そういう意味では平凡な出来。しかし、主演の二人は流石です。ジュディ・デンチとケイト・ブランシェット、やはりプロの役者です。先日の井筒和幸の韓国映画と日本映画の比較を引用しましたが、この『あるスキャンダルの覚え書き』のケイト・ブランシェットのような役を今の日本の女優?思いつきません。しいて言えば、寺島しのぶ?昔は『にっぽん昆虫記』の左幸子など、でしょうけれど。
2007.06.14
『パッチギ!LOVE & PEACE(井筒和幸)』を見ました。夕方の回でしたからでしょうか?それとも封切って日が経つからでしょうか?客は10人程度。土曜日の夕方、シネコン(MOVIX三好)は混雑していました。前回と同様に、韓国が表に出ている。しはし、そこから読み取れるのは、日本人って?何だ。民族って?今、自分がここのいるということはどういうことの繋がりがあるのか?もっと、真面目に考えよ、たまには・・・、と。読むことが出来る。内容は、前回よりも韓国人中心になっている。中村ゆり、井坂俊哉、今井悠貴の親子兄妹や手塚理美、風間杜夫、そして、日本人役は藤井隆、でんでん、ラサール石井など。その他にも、米倉斉加年、馬渕晴子、愛染恭子などなどその人たちを見るだけでも面白い。物語は、大阪から、子どもの病気筋ジストロフィを治そうと東京に出てきた一家が中心となり、その家族に関わっていく藤井隆。怪しい(?)芸能プロダクション(でも、社長は気骨ある人に描かれる)にスカウトされ、みるみるスターになっていく少女。その少女が、主役の座を掴む、映画『太平洋のさむらい』。やや、図式的過ぎるが、そこには、最近の似たような映画へに対する、井筒監督の批評になっている。最初と最後の乱闘シーンは、前作同様でこれでもか、これでもかとやってくれる。前作よりも、出来が良いと思うのは、メッセージがより普遍的になったからか。
2007.06.09
1000円の日でした。当たり外れを危惧して、1000円の日に『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習(ラリー・チャールズ)』を見ました。どちらかと言えば、当たりです。こういう法螺話は時々ある。カザフスタンのボラットなる男が、アメリカの文化を自国に紹介するためにTVレポーターとしてアメリカに行く。その前に、自国でのこの男の振る舞いが紹介されるから、この米国行きは、はちゃめちゃなものになると分かる。米国のTV局での振る舞い、ロデオ会場でのこと、よそへ招かれた時のことなどすべてが、悪意のある失敗と思われるほどである。確信犯?NYからカリフォルニアへのロードムーヴィー的な部分もある。ここでめぐり合う娼婦が優しい。『世界最速のインディアン』も、ゲイが主人公に優しい。この種の共通点が気になる。何かへの免罪符か?しかし、久々によく笑った。
2007.06.01
話題の監督、キム・ギドクです。初めて見ました。傑作っと、簡単には言えませんし、素晴らしいとも言わせない、ある種のカリスマ性があります。2年程付き合ってきた男女の話です。飽きられたと思った、女は顔を整形します。そして、再び男の前に・・・。男は前の女に心を残しながらも、目の前の女に惹かれます。同じ女と知るのは、女本人と、我等観客です。前の女に手紙をもらい、心が揺れる男。今の女は、自分は何だったのと、男に迫ります。人間(顔や肉体)の存在と、心の存在との間で揺れ動く、やはり肉体と心を持つ人間。その矛盾をすべて抱えもっているのが、我等人間です。『絶対の愛』は、そういう人間の「何か」を描いています。もう一度、見ないと、よくは分からないのです。それと、キム・ギドクの他の作品を・・・、見てみたいと思わせただけでも、これはよい映画体験でした。
2007.05.26
2005年の『プロデューサーズ(スーザン・ストローマン)』は、このメル・ブルックスのリメイクである。某電気店のDVDコーナーで、メル・ブルックス版を見つけて購入。980円でした。2005年は映画館で見ましたが、こちらの1968年版は見ていなっかったし、DVDがあるとも知らなかったので、運良く見つかり嬉しいことでした。近いうちに、見られればと思っています。プロデューサーズthe Producersメル・ブルックス1968
2007.05.13
いわずと知れた、今年度アカデミー賞主演女優賞、ヘレン・ミレンの見事な演技の話題作です。実は、ヘレン・ミレンが良いだけではなく、フィリップ殿下のジェームズ・クロムェルもトニー・ブレアのマイケル・シーンも演技賞ものです。しかし、まだ10年前の事件(出来事といったほうがよいかも知れません)。女王やブレア首相やその他すべての登場人物の殆どが生きているにも拘らず、これを映画にしてしまうというのは日本では考えられないでしょう。天皇が英国の王室ほど政治的な力はないにしても、皇室を、またそのスキャンダルがあったとして、その事件を映画にしようものなら・・・、何が起きるやら、想像するだに怖ろしいことです。と言うように、『クィーン』は、そういう風にも見られそうです。でも、そうではなく、この映画は、毅然とした作品であり、品格もあり、見事です。
2007.05.04
チャンネルNECOで、4月から始まった、監督鈴木英夫の特集。その中の1本。司葉子、宝田明、水野久美、森光子、大塚道子、山崎務、西村晃など。広告会社を舞台にした、営業の戦いの物語。司葉子は西銀広告、宝田明は大通広告。司葉子はコピーライターから連絡(営業のことです)になった優秀な営業。宝田明も一癖も二癖もある営業。この二人が、或る製薬会社の新製品の広告の競争をする。それが、物語の流れになっていて、女性の仕事とその周辺が鮮やかに描かれている。中でも、広告(デザイン・コピーなど)を作る過程や、製薬会社のオリエンテーション、プレゼンテーションは今の様子と大して変わらない。それほどまでに、リアルといえる。この映画の封切りの年1962年は、『椿三十郎(黒澤明)』『切腹(小林正樹)』『キューポラのある街(浦山桐郎)』『私は二歳(市川崑)』などがキネマ旬報の邦画ベスト10。その他ベスト10以外にも『忍びの者(山本薩夫』『座頭市物語(三隅研次)』『鴈の寺(川島雄三)』など、今から思うと佳作、秀作が目白押し。しかし、この『その場所に女ありて(鈴木英夫)』は、1点も入っていません。当時はそういう状況だったのでしょう。その場所に女ありて鈴木英夫東宝1962年1月28日 封切り同時上映 『サラリーマン権三と助十(青柳信雄)』
2007.05.03
封切りから、1週間。見てきました。監督はあの『真珠の耳飾りの少女』のピーター・ウェーバー。映像の美しさを期待した。原作は、その点を期待させるものであった。ヨーロッパと貴族と絵画、そして日本文化やハンニバルの少年時代。それらが映像になると思うと、いろいろ想像し期待した。しかし、残念・・・。映画になったのは、ハンニバルとその復讐譚に終始。その残虐なシーンは見ごたえがあるが・・・。それは、この作品の本質ではないであろう。ハンニバルの叔母、紫夫人やその夫の画家(ハンニバルの父親の弟=映画では死んでしまっている)、レクター家の財産、医学生としてのハンニバルと彼の絵画の才能など、面白くなるべきが飛ばされてしまっていた。紫がハンニバルに剣道や華道を教える所がある。その所くらいが、原作の持つ深みを映画にした部分だと思う。鎧兜や、日本刀、能面らしきもの、それらすべてが日本の侘び寂びとはかなりかけ離れたセッティングをされていた。このあたりに、この映画の作られ方の杜撰さを見てしまう。だから、残念だと言う。前の『ハンニバル』も、そうであったが、原作を読んでいたほうが、映画を理解し易いようだ。この『ハンイバル・ライジング』も、そういう点で、原作を読んでいたほうが、ハンニバルの行動や、紫の思いが理解し易い・・・?日本人たる、紫をコン・リー(?)では、どうかと疑問であったが、やはりコン・リーには無理があった。日本女性の色っぽさや落ち着きなど、コン・リーでは幼すぎた。だが、ハンニバルのギャスパー・ウリエルの目つき、体の動きなどは鬼気迫るものを感じた。しかし、映像も普通で、平凡な作品だった。
2007.04.29
タイトルが地味で、というかインディアンの意味が分からず、損をしている作品。配給会社は、どう考えてつけたのだろう。日本ではハニバル・レクターとしてのイメージが強く、アンソニー・ホプキンスは怖いキャラクターである。『日の名残り(ジェームス・アイヴォリー)1993』の執事役ですら、なんだか怖い。その彼が、ニュージーランドの片田舎のオヤジを好演。インディアンと言う名の自分のオートバイでスピードの記録を知りたいがために、アメリカまで行くロードムービー。行くまでと、着いてからと、その過程はロードムービーの定石どおり。それに、彼が途中で会う人物人物がすべてよい人たちばかり。レースの会場でも皆よい人だ。そんなことは現実的ではないというものの、見ていて気分は安らかだ。『リトル・ミス・サンシャイン(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス)2006』も同様のロードムービーだが、『世界最速のインディアン』とは違い、毒がある。その所を、どう判断するか?私は、この毒を評価する。だから、『世界最速のインディアン』は、よく出来た、大人のお伽噺だ。
2007.04.13
中日新聞の文化欄のコラムです。「鬼才田中登を思い出そう」と題して、四方田犬彦(明治学院大学教授)が、書いていることに背中を押されたのが、今日のブログです。【映画には新作の封切りのものと「懐かしの名画」しかない、と思い込んでいる御仁がいる。だがそれは真実ではない。(中略)その後(封切り後)なかなか上映される機会がなく、忘れさられようとしている優れた作品がいくらでもある。】として、日活ロマンポルノの監督田中登のことを書いている。それは、【東京ではラピュタ阿佐谷で三月末から一ヶ月間、この田中の作品が十六本上映される。単なる懐古趣味に終わらず、いまだに観る者を戦慄させるに足る作品ばかりである。近く中部方面にも廻ってくるだろうが、ぜひお薦めしておきたい。】と締めくくっている。この四方田氏の意見には反対する所はない。そして、この三月末から田中登の作品が上映されることをきっかけに、田中登をとりあげ、「懐かしの名画」ではない、田中登の作品を見ましょうという話はもっともだと思う。だが、ここで、四方田氏がいう「懐かしの名画」って、何をいうのか?日本映画に限っていえば、黒澤や溝口や小津や木下や成瀬のことだろうか。あるいは、川島や今村や岡本をも含むのだろうか?まだ現役の市川崑も大島渚も・・・?四方田氏は、それほど深くは考えずに、「懐かしの名画」といっていることは分かる。分かるから、敢えて言いたくなる。田中登監督の作品は、「懐かしの名画」ではないと四方田氏は言っていることになる。「懐かしの名画」の「懐かしい」とは、誰にとって懐かしいのか?それぞれ個人にとって懐かしいのであって、もしかしたら、田中登監督の作品を懐かしく思い、名画と思う人もいないとは限らない。だから、敢えてこのように言いたくなる。そのまま、通り過ぎれば、誰でもが懐かしく思い出す名画・・・。『生きる』や『雨月物語』や『東京物語』や『二十四の瞳』を指していることは分かるくらい分かるのである。四方田氏は田中登の作品を良しとして、取り上げてはいるが、前述の『生きる』などとは区別をしていることが明白だから、こう言いたかったのである。学生時代、日活ロマンポルノは日常としてあった。『一条さゆり 濡れた欲情(神代辰巳)』を観て、震えたことを思い出す。わたしには、『一条さゆり 濡れた欲情』は「懐かしの名画」なのだから。【】の太字が引用です。
2007.03.21
家人が旅行に出て、留守番。でもって、映画館へ。『バッテリー(滝田洋次郎)』『パフューム ある人殺しの物語(トム・ティクヴァ)』を3月17日に三好MOXIXで、『善き人のためのソナタ(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)』『合唱ができるまで(マリー=クロード・トレユ)』は3月18日に名古屋市の単館ロードショウで。それぞれについて、きちんとコメントしたいが時間がないので、今回はざっと述べるに止めます。『バッテリー(滝田洋次郎)』は、まだ読む機会を得ていないのですが、原作が面白そう。物語は普通にあるし、特に目新しさはない。でも、それが悪いといっているのではない。普通にある物語だが、ひきつけられる。それにしても、12歳の子ども(少年)の投げる球の速さは凄い。実際に投げているらしいので、余計に凄いと思う。そこだけでも、見る価値がある。キャッチャーも素晴らしい。『パフューム ある人殺しの物語(トム・ティクヴァ)』は、奇を衒いすぎ。香りに敏感な男というアイディアはとても興味深いが、それをあのような形にするのは、どうも好みではない。18世紀のヨーロッパ、パリなどの暗い雰囲気や、ダスティン・ホフマンの仕事場などは面白く見られたが、どうしても、付いていけない部分がある。この映画をTV-CMで見た。推薦しているのが、お○○で、今まで、この人が勧めた映画で、ボクが気に入ったものがないのだが、偶然だろうか?善き人のためのソナタ(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)』は、今回見た4本で断然素晴らしい。人はひどいことを平気でするが、また一方で、愛に溢れることもできる。これは、お薦めです。『合唱ができるまで(マリー=クロード・トレユ)』数年前に『ベルリン・フィルと子どもたち』というドキュメンタリーがあった。それを思い出した。しかし、これはもっともっと原点に帰っている。というのは、余計なナレーションが一切なく、また登場人物同士の会話も極めて少ない。ただただ合唱のための練習を捉えているだけである。もし、これを固定カメラでずうっと撮っていたとしたら、別の意味での面白さが出たのではないかと、思ってしまった。4本の点数をつけてみた。『バッテリー(滝田洋次郎)』70点『パフューム ある人殺しの物語(トム・ティクヴァ)』60点『善き人のためのソナタ(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)』80点『合唱ができるまで(マリー=クロード・トレユ)』70点以上です。
2007.03.18
あいち平和映画祭2007で『紙屋悦子の青春(黒木和雄)』と『蟻の兵隊(池谷薫)』を見た。戦争反対は勿論、最近の憲法を変えようと言う動きの中で、九条を守ろうという趣旨の映画祭。この他に、『花よりもなほ(是枝裕和)』の上映と、広島大学講師袁葉(ENYOU)さんによる講演「銀幕が結ぶ日本と中国」があった。私は映画を二本見ました。客の多くは、私より10歳以上うえの方々のようでした。会場の、名古屋市芸術創造センターの客席はほぼ満席で盛況。この観客の傾向を見て思ったのが、この人たちは子供の時かもしれないが、戦争を直接知っている、体験しているのです。そういう人たちが戦争を二度としてはならなないという熱い想いで、参加しているのだと言うことを感じた。今の政府の中で、憲法を云々しているのは、総理をはじめとした、戦後生まれの人たちだ。この人たちの言葉を借りれば、戦争をしないために憲法を変えるという論法であるが、一旦軍隊を軍隊として持ってしまえば、好むと好まざるとに関わらず、戦争に巻き込まれることは必至である。そういうことが、どうして分からないのかと単純に思う。さて、映画である。『紙屋悦子の青春(黒木和雄)』は、ほんの一月にも満たない期間の物語であるが、濃厚な時間と出来事を表現している。登場人物もわずかだが、当時の日本人すべての心を表現しているといってもよいほどの濃密さである。一言で言えば、実に美しい。そういう人間が当時は生きていた。今では実に些細な、喜びにもならないようなことであるが、そういうことに喜びを感じ、感動し、生きている人々である。そういう人々が、まだ60年前にはいたと言うことである。いや、私が小さい頃にはそういう人たちで日本はできていたと思う。だから、35年前か40年前には、そういう人たちが生活をしていたのである。例えば、芋(いも)を食べるシーンで、小林薫が、いもを少し酸っぱいというところがある。それに夫人が、そんなことはない、食べられると言う。いつのいもだとの問に、夫人は一昨日のだと言う。そういう会話である。今、神経質に言われる賞味期限。昔はそういうものは無かった。食べ物が痛んでいるかどうかは、自分の口で鼻で確かめた。そして、痛んでいれば口にしなかったし、多少のことは問題にもしなかった。また、食べ物を、今のように、それほどたくさん買い込んだりもしなかった。冷蔵庫の無い時代だからかもしれないが・・・。でも、それは決定的な理由にはならない。そういう風に人間は生きてきたのだ。このこと一つ取り上げても、今の人間は、堕落したのではないか。静岡産のお茶を本当に美味しく飲む。それも、エピソードとして感銘した。普通の家庭だから、高いお茶ではないと思う。だが、このようにお茶を美味いという文化があった。勿論、今でもお茶を美味いと思うことはあるのだが・・・。この、『紙屋悦子の青春』は、戦争を批判しながら、今の日本の文化のレベルへも批判の目を向けていると感じた。『蟻の兵隊』については、後日に・・・。会場の外の空。辛夷です。
2007.03.03
『それでもボクはやっていない』における、最後の判決文を聞いていて、背筋が寒くなった。これほどのことを書ける、今の判決とはいったい何なのか?確かにその通りであると認めざるを得ない。そうでない部分も同時に存在すると言う、コインの裏表でしかない。そして、その判決文は、その片方でしか書かれていない。誤解を恐れずに言う。こういう判決文が書ける判事は、家族に面と向かって、その判決を恥ずかしくなくいえるのだろうか?家族も恥ずかしくなく受け入れることが出来るのだろうか?わが国はどこでなのか?いつからなのか?道を踏み外したように思える。美しい国?冗談ではない・・・!!もう一つ付け加えたい。判決には、ドローがないのだろうか?即ち、その判事では判断が付かない・・・、だから自分は引き分けにする、ついては他の判事にもう一度審理をゆだねると言うような・・・。裁判に上告と言う形ではなく、セカンドオピニオンを求める制度は、作れないだろうか?今後始まる裁判員制度はそれの力になればよいのだが。『十二人の怒れる男』は、理想か?しかし、この映画『それでもボクはやっていない』は、この主人公がやっていない所もやった所も描いてはいない・・・。(そうだと記憶している)
2007.02.26
話題の一本。見ました。『それでもボクはやっていない(周防正行)』です。テーマは重く、映画全体も重苦しいものです。この監督(周防正行)だから、注目度は高く、テーマも悪くありません。ドキュメンタリーでも成り立つテーマです。こういう話は出来るだけ多くの人が見て、考える話です。だから、周防正行が取り上げたことは、ある面で成功だと思います。でも、ある面です。映画はかなりの人をひきつけその観客にします。しかし、それでも限られています。これは、TVで再度挑戦して欲しいテーマです。特にドラマとして・・・。そういうようにして、このテーマは多くの人が考えるものだ。
2007.02.25
『リトル・ミス・サンシャイン(ジョナサン・デイトン ヴァレリー・ファリス)』は、子どものミスコンである。地方大会で繰り上げ優勝した少女一家が、本選に向うまでのロードムービーであるが、これが一筋縄にはいかない濃厚な物語。父母とその父(少女からは祖父)と少女の兄と、母の弟の6人が、おんぼろワゴンで1000キロ以上走る。ロードムービーとしては、さほどの新鮮味はない。家族の再生の物語ということも普通だ。だが、最後のコンテストのシーンは息を呑む。それは、見てのお楽しみ。さて、ミスコンはやはり残酷だ。出ているほうは懸命だが、見ている側は、やはりどう考えても、野次馬だ。昔のローマと同じだ。それほどに、このリトル・ミス・サンシャインもおぞましい。普通に頑張る子がおぞましいし、その親たちがおぞましい。自分こそまともであると、思っている人々(自分も例外ではない)の奇妙さ、不自然さ、おぞましさ、様々な異状。気づいている人は少ない。この映画の肝心なのはその部分だ。普通の人が、おぞましいと思われるようなことにこそ、人の真心がある。そういうことを見事に描いている。秀作だ。
2007.01.29
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『サラバンド(イングマル・ベルイマン)』を見ました。ベルイマンでなければ、見ませんでした。嘗ての、ベルイマンの作品から比べれば、見る影もない、と言うと言いすぎでしょうか?親子の確執、夫婦の様々な想い。血肉を分けた親子の方が確執があり、その確執は濃厚なのでしょう。そして、思ったこと。人が他の人を知っている、とは・・・。何を以って、知っているというのでしょうか?それを、考えさせられました。答えは、まだ出ていません。
2007.01.28
青森県の六ヶ所村に2004年、原発で使った燃料からプルトニウムを取り出す再処理工場が完成した。それに反対し続ける、農家の人々を取材したドキュメンタリー。嘗ては豊かな漁港であった泊。漁港を調査する時の反対運動は激しかったという。漁師が中心だった。その時の先鋒だった彼は今も反対の姿勢を崩さない。だが、時がたち、その運動は風化してきた。しかし、今、反対をしている人たちは諦めることなく反対をしている。注目すべきは、その中心が女性であることだ。勿論男性もその運動をしているのだろうが、この映画『六ヶ所村ラプソディー(鎌仲ひとみ)』は、女性が中心だ。監督も女性だ。このような、地味なドキュメンタリーを地方都市で見ることは可也困難だ。名古屋ですら、今回を見逃したら、何時見られることであろうか?小さな新聞記事でこの上映を知り、駆けつけた次第だ。さて、、文明の発展は、本当に人を幸せにするのであろうか?ある時期まではそれが、幸せに繋がったことは確かだ。しかし、その頂点はとっくに過ぎ、新しい技術や、文明はいまや下り坂を滑っているのではなかろうか?こういう映画を見ると改めて思い知らされる。不便でもいいではないか、人の命が守れるのであれば・・・。不便と言っても、車もあれば、携帯電話もあれば、テレビもある。音楽だって手軽に持ち運べる。旨いのもも結構ある。これ以上何が要るのだ。自分以外に儲けている人間。旨い汁を吸っているのではないかとの、嫉妬。自分にもそれを回して欲しいと言う思い。様々な人の様々な思いが、混在し今の日本は(世界は)動いている。いい加減に停まってみたらどうだろう。そこで、ゆっくりと色々考えればいいではないかと、感じている。六ヶ所村ラプソディ鎌仲ひとみ16mmカラー・スタンダード119分2006年
2007.01.20
やっと見られました。これは、噂に違わぬ傑作です。風景が素晴らしい。モノトーンに近いおさえた色調と、幻想的な雰囲気の東京の町、二重橋を通る車、そういう一々が見事に美しい。廃墟の東京が美しいわけは無いと思うのだが、それが綺麗と感じさせる詩情がある。音楽もよい。ロストロ・ポーヴィッチのチェロ、バッハの無伴奏チェロ組曲第五番だそうだが、見事にこの映画に合っている。神ではなく、人間である昭和天皇、しかも天皇と言う身分ではなく、一人の家庭人としての、常識的な判断をする人としての天皇。ラストの皇后の表情こそ、駄目な亭主を仕方ないねと見る目、桃井かおりは凄かった。平日の夜、年配の客が多かった。相変わらず、若者は居ない。
2007.01.15
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『麦の穂をゆらす風』は、【アイルランドの伝統歌(アイリッシュ・トラッド)の名曲『The wind that shakes the barley』から、そのタイトルを得ている。この曲は、アイリッシュ・トラッドの中で、イギリス支配への抵抗を歌う「レベル・ソング(rebel song)」の代表的な曲で、詩人ロバート・ドワイヤー・ジョイス (1830-1883) の詞に、アイルランド独立を掲げていた青年アイルランド党のメンバーが曲をつけ、機関紙“The Nation” に発表した。】――公式サイトからの引用――大英帝国の支配下から自由であろうとするアイルランドとアイルランドを支配下に治めたい、イングランドとの戦いと、妥協までを描いた作品。最後まで大英帝国との和平を受け入れない独立派はついに和平受け入れ側と戦わざるを得なくなる。遂に、同胞を殺しあうまでになる。そこまでの悲劇をケン・ローチは重厚な演出で見るものを引っ張ってゆく。同胞を殺す=越えてはいけない、一線を越える。我々は、ケン・ローチに、その不条理を突きつけられる。戦争の原因は様々だろう。領土の問題、宗教の問題、人種の問題、資源の問題など、戦う理由はいくらでも見つかる。しかし、この『麦の穂をゆらす風』は、それらの理由を超えて、人間の業以外何ものでもないのではないか。人を戦いに導く、人を超えた存在=国家、に振り回されていく人間達。振り回されていると分っていても、どうすることもできないのもまた人間である。だから、同胞を殺すことから逃れられない。その、矛盾だらけの不条理こそがここにある。かつての『大地と自由』にも同じことが描かれていたと思う。翻って、『硫黄島からの手紙』である。ここにも、逃れられない戦争があった。遂に勝てないとあきらめた日本兵達は自決の道を選ぶ。見ている側から言わせれば、生きて逃げればよいのに・・・、と思う。しかし、あの場にもし自分がいたら・・・、逃げるだろうか?自信はない。『麦の穂をゆらす風』も『硫黄島からの手紙』も、戦争がいかに愚かであるかを見せてくれた。独立と自由のための戦いだからといって、同胞を殺すまでの戦いは、論外だ。もう一度考えてみよう。日本が戦争に巻き込まれないようにするには、どうすればよいかを・・・!!
2007.01.06
いつから、ビジネスに勝ち負け、勝ち組負け組みという区別を大ぴらにつけるようになったのは?昭和時代にそれは、あっただろうか?ひょっとしたら平成になってからかもしれない。まあそれはどちらでもよい。昔はそういう言い方はビジネス、ひいては人生に持ち込まれる価値ではなかった。『硫黄島からの手紙』で、捕虜の米兵の手紙を読む場面。米国人も日本人も心は同じだとしみじみとするシーン、だがそれは一瞬、戦闘が始まる。その時、自分が感じたのは、今の自分の置かれている状況と余り違わないな、ということ。しんみりと、しみじみと人の心を忖度する時間など、ビジネスシーンにはこれっぽっちもありはしない。そういう時代なのだと、今は。さて、『硫黄島からの手紙』である。よくできている。日本人が撮ったと言っても過言ではない。アイリス・ヤマシタの脚本やポール・ハギスとのストーリー作りがその成功の裏にあると思う。国旗掲揚についてのミスなどが指摘されているが、それはそれ程の瑕ではないほどの良いできだ。栗林中将が英雄視されて関連の本などが出版されている。何となく、西郷を助けた形になり、人道主義者的に描かれているいが、彼は、忠実な軍人であり、命令に従ったまでだ。しかし、人間としては、立派に生きた人だということは伝わってくる。無駄に死ぬことはないという、栗林の思いもすべて、この戦いに勝つためのベクトルである。先に見た、『父親たちの星条旗』より、数段上だと思った。実は、『父親たちの星条旗』を見終えたとき、『硫黄島からの手紙』は見なくてよいと思ったが、2006年の映画を語るには、欠かせないと思い見た。見てよかったと、今は思っている。さて、これは日本語がほとんどだから、アカデミー賞の対象外なのか?
2007.01.04
キング・コング ●ある子供●●ヴェラ・ドレイク ●天空の草原のナンサ●●いつか読書する日 スタンドアップ The有頂天ホテル ウォーク・ザ・ライン プロミス ●クラッシュ 親切なクムジャさん ホテルルワンダ ●ブロークバック・マウンテン プロデューサーズ ●ナイロビの蜂 ●かもめ食堂 博士の愛した数式●●嫌われ松子の一生 ●ココシリ 白バラの祈り インサイド・マン ●デスノート ●やわらかい生活 グッドナイト&グッドラック 日本沈没 寝ずの番 ●ゆれる ラブ・コン ●にあんちゃん 雪に願うこと ユナイテッド93 うどん●●にっぽん昆虫記 ●人類学入門ーエロ事師たちー 人間蒸発 ●フラガール 記憶の棘 ●西瓜 父親たちの星条旗 16ブロック ●デスノートThe Last Name 武士の一分の42本です。●は佳作。●●は傑作。
2006.12.31
余り、積極的に見る気はしなかったが、知人友人が面白いというのと、昨日TVで『たそがれ清兵衛』を見たことが、背中を押した。まあ、まあ面白かった。話は、最後まで読めてしまうので、これは致し方ない。その他もそうだが、藤沢周平の映画化は、原作が出来がよいこともあり、独自性を出すのは難しいと思う。最後の果し合いの場面は、西部劇的であり、風などは黒澤明的でもあった。蛍と蚊がこの映画の見所かも知れない。
2006.12.23
映画タイトルのカウントダウンに参加します。日本映画で・・・十字路九ちゃんのでっかい夢八月の狂詩曲七人の刑事ろくでなし稼業五辧の椿四年三組のはた二人の世界一番美しく印象に残っているもの十三人の刺客以上です。
2006.12.10
待望の『デスノートthe last name』を見ました。土曜日の夜の最終回。もうそろそろ空くと思いましたが、そこそこの入り。さて、映画は面白かったですよ。でも、こういう劇画チックなものは、いくら出来が良いといっても、お子ちゃまの域を出るのは難しい。金子修介はよくやっていると思います。かつて期待して見た『クロスファイア』より余程、この『デスノート』正続はいい出来です。デスノートのルールーが分からないと、見ていて混乱するというか、分からなくなる。そういう映画。