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カテゴリ:精神病
私はある力(超自然的な」によって悲惨な死を遂げるだろう。
それは私を邪魔する「力」がどんどん増えて何回も襲って来た事実から得た帰結。 せっかく書いた長文をその力は消した。 その力は物体にも作用する。 そして、多くの死んだ人(精神病院での仲間)達。 彼らもその「力」の被害者だったと想う。 その力はその事実を隠したいのかもしれない。 このブログに発表出来るのはこれだけなのかも知れない。 ただ何となく私は悲惨な死を迎える気がする。 今日もしたい事が出来なかった。 その「力」は凄く人の目もくらませる。 考える事も難しくさせる。 何よりも「自分」をなくさせる。 今から思えば、或いはつい今も、私は自分と言う物を無くしながら生きていてこれだけの文章しかブログに書けない。 私が生きている、、、それを妨げる何かは「物」だったりするかもしれない。 物もその力は動かす。 人までも。 このブログはこれだけだったら発表されるのだろうか? 障害、、、、 外的力が、それを、、、特に精神障害者、そして、異常言動をおこさせる原因だと。 それは物にまで働く。 そんな力には私は抗えない。 その中でも何か今日これだけをブログにできるのだろうか? まぁ、自分の中では何かは有るが時間の浪費? 邪魔する何かは何もできなくしてきている。 結局は今日も出来ない事に、、、これはいつまで続くのだろう? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
何かは「自分」の自由に出来るようだ。
だから、私は今生きているのだろう。 人が抗えない力の中で、「生かされている」感覚と言うのは私には何か難しい。 やっぱり、「生きようとして」それで苦しくて、そしてもがいて苦しくて「死」を覚悟してもなお「生きていて」何かが「生きる事」を”しろ”と。 「生かされている」は受動的な言葉だと思える。 「生きていることに感謝」するのが難しい状況も人には有るかも。 自分が何処に有るのか? 人それぞれが「何の為に生きてるのか?」 抗えない超自然的な力を感じ、苦しんでそれでも「自分」と言う存在を肯定して生きていく。 そこには例え抗えない力が自らを支配していても「何か」が無いと、つまり、能動的な何かが無いと「生かされている」と言うのは意味を為さないと私には想える。 「生かされている」と言うのは精神医療の中で少し流行った事が有るフレーズ。 (2016.12.04 08:07:10) |