其の六の二「二人」月の光も凍てついている。 それでも影は落ち、落ちたその影もまた凍てついている。 大きな人影ではある。しかしそれよりも、常軌を逸しているのは得物の影だ。 「さあて」 <双頭剣>は影の主を見上げた。 身の丈2mを越える巨漢だ。暗い色の軍服めいた衣装が内側からの筋肉によって弾けそうである。 三十路ほどと見えるその顔を<双頭剣>は知っている。この男に如意宝珠を渡したのは<双頭剣>ではないが、この舞踏会の競合者となっていることは承知していた。 「この雑用係に何か用かね、<破斬刀>?」 「ちぃとばかり便宜を図ってもらおうと思ってな」 肩に担いだ恐ろしく巨大な剣、<破斬刀>。それを呼び名とする男はにやりと笑った。 <双頭剣>はわざとらしく肩をすくめる。 「おいおい、俺は肩入れ出来ん立場なのだがなあ?」 「知ってるさ。けど同類じゃねえか、頼むぜ。許されないのは試合放棄だけだろ?」 口の端を歪め、<破斬刀>は歯を剥く。 <双頭剣>はもう一度肩をすくめた。 「なるほど、お説ごもっともだ」 確かに、グノスサイラスが禁じたのは棄権だけだ。あとは、主催者側の者が中立であることが絶対であるべきと解釈するか、それこそが抜け道であると解釈するかだ。 「だろう? だから……」 「その前に一つ訂正しておこう。俺は君の同類ではないのだがねえ、<破斬刀>?」 煽るような口調と声。しかし<破斬刀>は片眉を上げただけで、苛立ちすら見せなかった。 「名乗りが<双頭剣>で同類じゃねえとはまず思えねえな」 「名乗りなど自由だ。そうだろう?」 <双頭剣>も人を食った口調を崩さない。そもそも煽っているつもりもない。 風はない。だが遠くで赤い光が閃いた。二人の横顔がその輝きに少しだけ浮かび上がる。 「さて……では訂正が終わったところでこちらから本題に移ろう。君が恥知らずにも図って欲しい便宜とは何だ? 他の競合者を抹殺してくれと言われても困るぞ? 間違いなく、クライアントの意向に沿わんだろうからな」 「んな腑抜けたことは言わねえよ」 恥知らずにも、という下りにはさすがに心中に不穏な感情が芽生えたのか、<破斬刀>は苦々しく頬を歪めた。 「他に誰がいるか知りたいだけだ」 「ふ……くく、ま、そんなところであろうな。それならいいだろう」 これからやり合う相手のことを知っておくことは、戦いの規模や階梯を問わず、基本となる。随分と良心的な要求だ。自分では狡いことも出来るつもりでいるが実際にはあまり向いていないのが、この<破斬刀>だ。 「とは言っても、俺も全員知っているわけではないが……なかなかに愉快な顔ぶれだ。参加する気などまったくなかった普通のお嬢さんから、君と同じく<神具の徒>が如意宝珠を自分に使用して人の領域を超えた輩、果ては怪談の主までいるぞ?」 「……最初のはともかく、全体的には侮れねえってことか。詳しく教えろ」 「まあ、そう焦るな。焦るのは少し、ほんの少しだけ早い」 <双頭剣>はくっくと笑う。 「侮れんどころではない。<魔人>とリザまで競合者だ」 「ちょっと待て!?」 さらりと並べられた名に、一瞬で<破斬刀>の顔色が変わった。 「<ギルド>最強と……<歩く混沌>まで来てやがるのかよ!」 「来てやがるのだよ、恐ろしいことに。さあ、どうするね? 棄権だけは許さんそうだぞ、クライアントは」 <双頭剣>は張り付いたような笑みとともに見守る。焦燥を下地として、諦めに落ちそうになる心を必死に引き上げる<破斬刀>を本当に愉快そうに観察している。 <魔人>とリザ。その力を目の当たりにしたことのある人間ならば、これほど現実的に恐怖を感じる名もあるまい。 しかし<破斬刀>が最後には立ち向かうであろうことを<双頭剣>は予見していた。如意宝珠を己に使ってでも参加するということは、何を相手としても戦う覚悟を決めていたはずだ。 それほどに、この舞踏会の賞品は大きいのである。 「……多分、どれも違う」 三十の女吸血鬼の特徴を聞き出した凱はそう結論付けた。 外で閃いた輝きで暗い部屋が一瞬だけ明るくなる。他の競合者が戦っている場所はそう遠くないようだ。 「そうかい」 自称<出来損ないの仙人>、笠倉曜は椅子に腰を下ろし、気にした様子もなく虚空からひょいと煙管を取り出すと、指先に赤々とした火を熾して紫煙を立てた。 「そりゃご愁傷様と言うべきか……いっそよかったなと言うべきかは知らんがね」 「よかったってことでいい」 出来れば自分の手で片をつけたいのは正直な気持ちだ。 「あいつはもっと小柄だったはずだ。明楽と同じくらいだったからな」 外見は十代半ばから後半、身長は160cmに達していなかっただろう。どちらかと言えば、鑑別点になりやすいのは体躯の方だ。処女の血液を好む、という条件に当てはまる吸血鬼は多いらしく、それを受けて女の吸血鬼は十代で成っていることが多い。曜の挙げた面々もほぼ半数が十五、六ということだった。 曜はゆったりと丸く煙を吐き出した。 「それは珍しいかもしれんな。あそこらへんの人種の所為もあるんだろうが、大抵は160以上あるもんだが。しかしお前さん、それでも見つけるのは骨だぜ?」 「……分かってる」 沈んだ気分で頷く。洋の東西を問わず、姿を変える術法というものが存在する。仮定の話をするならば、今もあの時見た姿と同じであるという保証はないのだ。もし同じであってくれたとしても、写真もなく、似顔絵を描けるわけでもなく、誰かに訊くにも口での説明には限度がある。 それでも、ほぼすべての行為が無駄に近いとしても諦めることは出来なかった。 「まあ、見つけさえ出来れば真祖でもほとんど敵にならんと思うがね」 曜のその言葉はせめてもの慰めとの意図から出たものだろうか。 事実として、如意宝珠のもたらす力は大抵の真祖を凌駕する。実際に少し前、凱も紛れ込んでいた一体を鎧袖一触と言っても構わないくらいの勢いで葬り去ったことがある。 「全部じゃないだろ?」 「<大公>や<鉄錆城の姫君>、あとはベルシオンなんかは駄目だろうが、それ以外なら問題ないだろう」 「……ベルシオン?」 知らぬ名に凱は眉根を寄せた。<大公>は言わずと知れた始祖だ。<鉄錆城の姫君>というのは<大公>直系の真祖で、世界中を歩き回っていると聞いたことがある。しかしベルシオンという響きにはまったく記憶の中に引っかかるものがない。 吸血鬼については散々調べたのだ、強力な個体であるにもかかわらず自分が耳にしたことすらないとは信じがたい。 「そりゃ知らんだろうさ。吸血鬼だと思われてないからな」 また、曜が輪を吐く。頬杖を突き、こちらに向いた視線は笑っているようにも酷薄にも映る奇妙なものだ。 「奴はチベットの奥地で某引き篭もり女王の侍従長をやってる。あいつくらいじゃないかね、自分の祖以外に仕える吸血鬼なんざ。しかも奴ァ真祖だぜ?」 「……ありえねえ」 真祖というのは誰にも支配されない吸血鬼である。相互の意識においての格付けの差から遜ることはあっても、仕えるなどということはしない。たとえ相手が<大公>であったとしてもだ。 「だから一部を除いて誰も吸血鬼だとは信じないって寸法さ。別に奴さんもそんなこと狙ったわけじゃないんだろうが」 「あんたは知ってるんだな」 凱はその一言を差し込む。ほとんど誰も信じないことを、そうであると断言出来る理由は何なのか気になった。まさか殴り込みでもかけたのだろうか。 返答は、凱の心を読んだかのようなものだった。 「チベットの奥まで行ったわけじゃあない。第二次世界大戦後の上海で一度やり合った。女王様の我侭を叶えるために自ら出張って来やがったのさ」 「……いや待て、あんた一体いくつだ?」 「百は越えたね。二百はまだだ。明治後期の生まれだよ」 灰皿と煙管が軽く触れ合い、高い音を立てる。 「……やれやれ、合わないね」 火鉢を置けとも言えんがね、とぼやいてから曜はにやりと笑った。 「驚くこたァないだろう。出来損ないでも一応仙人だぜ? それに、知る限りじゃあ俺は三番目に若いんだがね。最近仙骨の持ち主がおそろしく減ってるらしい」 「……そういえば仙人だったか」 目の前の男は、どうにも仙人という単語と結びつかない。常に意識していないとすぐに認識から外れてしまう。 そこでもう一つ思い当たった。 「もしかしてあんた、<院>の出身だったりしないか?」 笠倉という名が<院>の中核を占める家の中にあったはずだ。凱自身は幼い頃に見出されて<院>に引き取られただけで、伝統などにはまったくもって詳しくないが、それでも聞き覚えがある。 「そんな当然のことを改めて訊かれるとは思わなかったがね」 返って来たのは肯定。言い回しは皮肉めいているが、口調は飄々としてどのような意図であるのか判らない。 凱には、今ひとつこの青年を捉えることが出来なかった。それこそが仙人だという証なのかもしれない。 「無論、今となっては関係なんざありゃしないわけだが」 曜が口の端を吊り上げた。自分のことも吸血鬼らしからぬ吸血鬼のこともそれ以上語るつもりはないのか、あっさりと話題を大元にまで戻してしまう。 「ま、この舞踏会を生き残れたら気長に探すこった。どうせ不老不死になってるんだからな」 「不老不死?」 思いもよらぬ言葉に凱は眉根を寄せた。 「如意宝珠は不老不死をもたらすってのか?」 「ああ、まあ……厳密には不死じゃあないがね。結果的に年はとらず、病気にもならず、殺されない限りは死ななくなるってことさ。如意宝珠が自動的に望みを叶えてくれるってわけだ」 曜の言葉の意味するところを少ししてから理解し、凱はかぶりを振った。 「俺は別にそんなこと望んじゃいない」 すると、何が可笑しいのか曜は肩を揺らしてまで笑った。 「ああ、そうだろうな。自分ではそう思い込んでいるだろうさ」 「思い込みじゃない。俺は……」 明楽とあの吸血鬼のことに決着が着きさえすれば後のことに興味はない。凱は本気でそう思っていた。 だがその本気をも受け止めた上で曜は否定した。 「生き続けることを望むのは生き物の性だ。絶望したつもりでいる奴や生死に興味がないと勘違いしてる奴は腐るほどいるがね、当然それは全部偽物だ。一番奥のもんだからな、自分では気付けない。言ったろう、ただ生きただ死ぬことを当然のこととして受け入れるなんてことは仙人にもほとんど出来ないのさ」 進めない。 やはりそうなのか、と亜樹は重いため息をついた。 家から南におよそ10kmの地点。四車線の国道はそのまま向こうに続いているというのに、亜樹の身が交差点から先へと踏み入ることは叶わなかった。 此処ばかりではない。東西南北、これで四方をすべて確かめたことになる。 これはまず間違いなく、閉じ込められたのだろう。 選んだのは、逃げること。どうすればいいかを自分なりに懸命に考えた結果、やはりそれしかなかった。 力を使ったとしても自分を下回る相手は一人もいないだろう。誰にも勝てない。仮に自分の勝てる相手がいたとしても、まず何よりも戦いたくない。 そして、参加者たちにはそれぞれ何か目的があるはずだ。自分は参加するつもりはないと言ってみても、向こうにしてみれば自らの目的を捨ててまで聞き入れる必要性などどこにもないはずなのだ。出くわすことさえ大きな危機となる。 家にはいられない。既に誰かには見つかっているのではないかと、そんな気がする。 だから逃げ続ける。閉じ込められたことが判った以上、場所を移動しながら、目立たぬよう息を潜めるしかない。 遥か向こう、この凍りついた領域の中心部では夜空が赤く染まっている。きっと戦いが行われているのだ。 もしかすると、自分が今いるこの場所こそが隠れるにはいいのかもしれない。領域の端の端など、探そうと思わない限りは誰も来ない気がする。 背後の百貨店に併設された立体駐車場の柱の陰に身を隠す。気休めにしかならないのかもしれないが、道路の真ん中にいるよりは見つかりにくいはずだ。 大きく息を吐く。空気は熱いのに、感じるのは寒さだ。 やはり怖い。幾度覚悟しようとも、吐息が震えるのが判る。 ただ逃げ続けるだけではどうにもならないことは承知している。なんとかしてもう一度主催者に会って、降りることを認めてもらわなければならない。 「どうしたら……」 どう説得すればいいだろう。グノスサイラスと名乗ったあの少年は、棄権だけは認めないと言っていた。加えて、自分のことを面白そうだとも言っていた。果たして願いは通じるだろうか。通じることがありえるのだろうか。 説得するしかないのだと結論付けることは出来ても、素直な気持ちとしては絶望的に思える。 黒髪を一房、くるくるといじる。 ふと思い出すのはあの黒衣の姿だ。どうしていいのか分からなくなると、自然に浮かんでくる。 不思議に思う。出会いの時を始めとして何度も助けられたとはいえ、むしろ恐ろしく、あれほど怖い存在はないのではないかと感じているのだ。なのに落ち着くのは何故なのだろう。 考えて、しばらくしてひとつ思い当たった。向かい合うと、まったく余裕がなくなるのだ。思いがそのまま出てしまって、だからその剥き出しの心に何かが触れる。 本当に不思議だ。会うのは怖いのに、会いたい。 「……ふふ」 ため息から続いて、小さく笑い声が漏れる。 まるで恋みたいだと、そう思った。 |