あの頃、私は辛かった!
香港で暮らしていた2年半のうちの後半の1年間は、自分という存在は意味がないのではないかと悩み、精神的に不安定な時期だったと思います。●会社員時代&フリーのライターとしてバリバリ働いていた頃大学を出た私は、すぐに地元の出版社に就職。月に何十時間も残業しながら働きました。結婚して、勤め先を替えましたが、失業保険を満額受け取る前にもう働き始めていたほど、仕事はもちろん大変でしたが、大好きでした。2番目の会社勤めの後は、フリーランサーのライターとして独立。常に、「働くこと」は当たり前のことになっていました。収入の手段であると同時に、自己実現の手段でもあったように思います。●即決断。夫の赴任先香港へ夫の香港赴任の話が出たとき、1年間やっていたライターの仕事を中断して、夫についていくことにあまりためらいはありませんでした。何度も何度もザセツを繰り返し、まったく進歩しない私の英会話。でも、海外に行けば、勉強する時間もたっぷりとることができるし、日本では考えられないくらい日常的に使えるチャンスもある。英語ができるようになって日本に戻って、また仕事に復帰すればいい。そんなふうに前向きに考えて、夢を抱いて、香港に渡りました。●日本の友だちへの嫉妬しかし、現実はやはり本当に甘くありませんでした。まず、初めての専業主婦という立場は、次第に私の気持を居心地悪くさせていきました。また、まだ住み始めて半年もたたないうちから、日本の友だちの活躍がうらやましくて仕方がなくなったのです。寝る時間を惜しんで働いてるという話や、いろんな人とのコネクションが広がっているという話を聞くにつけ、自分だけ、取り残されていくような、何とも言えない所在無さを感じたのです。●自分自身への甘さも…確かに働いていたときから考えると、信じられないくらいたっぷりの時間がありました。 ですが、その時間を全部英語に使えるほどの潔さも実はなかったのです。せっかく香港にいるのだから、その生活自体も楽しまないとソンと思い、ブランドやショッピングには興味はなかったものの、観光では行けない所へ出かけては遊んでいました。そんな感じだから、当然英語もなかなか上達しません。自分の中にいつも葛藤を抱えている状態でした。●友だちや夫へも八つ当たり英語ができる日本人の友だちと飲茶をしていても、彼女の何気ない一言にも敏感に反応したものです。私が英語ができないのを本当は心の中でバカにしてるのではないかと勝手に思い込んだりしました。思うだけでなく、さっきの一言に傷ついたと泣きながら抗議の電話をして友だちを困らせたりしたこともありました。慣れない仕事で疲れている夫にも八つ当たりしました。日本にいたら、ライターの仕事ができたのに、ここにいたら何の仕事もできない、あなたのせいでキャリアが積めないと、泣いて、叫んだこともありました。ああ、書いていて、情けないです。当時の自分。●いつも焦る気持でいっぱいだったもちろん、英語もまったく勉強していなかったわけではありません。拙著のコンセプトになっている「サブノート」を作って、勉強は続けていました。ですが、目に見えた上達はありませんでした。香港の駐在は数年と決まっていたので、その間で何とか英語をものにしないと、仕事をやめてまでこちらに来た意味がなくなってしまう。いつも焦燥感と隣り合わせでした。●転機が訪れる香港での生活が2年を過ぎた頃、夫に次の赴任先が告げられました。マレーシアでした。ここにも2年間暮らすことになるのですが、この異動は私にとっても転機になりました。 よし、今度こそ何かやったという証拠を残そう。自分の仕事に役立つものをちゃんと身に着けて日本に帰ろう。役立つものとは英語しかない…。そんな思いで、夫と一緒にマレーシアに向かいました。マレーシアでは2年間を過ごしました。何でも時間のかかる私は、ようやくここで、何とか大丈夫かなというレベルの英語は身につけることができたのでした。長い道のりでした。★今日も最後まで読んでくださって、どうもありがとうございました。☆拙著の紹介をさせてください。“口ぐせで覚える!マンガで覚える!書いて覚える!”『ミーコのおしゃべりEnglish~ネコの手を借りて覚えよう!』(三修社)