|
テーマ:マラソンに挑戦(5680)
カテゴリ:マラソンな日々
友人に勧められて、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」(文藝春秋社)を読んだ。彼は、走る第一の目的は「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させること」だとしていますが、走ることは、それを語ることを自然にいざなう。ある意味で村上春樹ですら語らざるを得なくなったと言っては言い過ぎでしょうか。 僕は彼のような20年来のランナーではなく、数年前に走り始めたビギナーであるけど、考えてみれば、人間が移動する時は、歩くか、走るか(赤ちゃんにははいはいがあるけど)しか選択肢はないわけで、走ることは極めて原初的なこと。だからこそ、語ることは簡単だけど、難しい。 「最近走るようになった」と友人に話すと、一様に「すごいね」と言われる。僕の場合、ダイエットしなくちゃ、とか村上春樹のようなモチベーションがあって走り始めたわけではありません。たまたまアフリカに赴任している時に、走って交友を深めようと言う外国人の集まりに誘われて走り始め、帰国してからは、フルマラソンを一度走って見たいという思いが募り、実際いろんな大会に参加し始めるとタイムがわかるので、次はもっといいタイムを目指そう!と練習を積み始めただけであり、「すごい」ことをしているという意識は全くない。走り始めると、1ヶ月もしない内に、10キロくらいはゆっくり走れば平気な体になる。だから、たいしたことはないよといってもなかなか理解されないのだけど。 走っている時は、何を考えているのか。暫く、i-podで音楽を聴いたり、韓国語!のヒアリングの勉強をしようとしたが、ダメみたい。音楽はロッキーのテーマ以外は鼓舞されない。韓国語は坂道を登っている時には耳に入らない。走っている時は聴覚の刺激を受けることは意味がないと結論付けて、最近はその他の感覚(視覚、聴覚、嗅覚など)で楽しもうと思うようにしています。また、仕事のこともしょっちゅう考えるけど、考えがまとまるわけでもないのですよね。村上春樹は走りながらプレゼンの練習をしていると書いていましたが、僕はすぐに気が散ってしまい、まとまった思考はできないのです。 今日も1時間位ジョギングしました。週末は最低10キロ×2日間は走ることにしています。最近、夕方走ることが多かったのだけど、今朝は久しぶりに朝7時に走って見ました。食事前なので、血糖値が低い中走る訓練。もっと歩幅を大きくしようとか、手を振ろうとか、ボディコアを意識しようとか、考えながら走る。でも、最後は、腹減った、帰ったら、目玉焼きとハムサンド、冷蔵庫に野菜ジュースがあったよな、早く食べたい、と思う。走ることは(僕にとっては)哲学からは程遠く、きわめて形而下のことなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[マラソンな日々] カテゴリの最新記事
|