カテゴリ:わたし思考・考え方
『吾(われ)十有五にして学に志す』
十五歳になって、学問によって身を立てようと決意した。 「有」はプラス。=10歳+5歳ですね。 幼少年期の孔子の生活は明るく楽しいものではなかったようだ。 姉もたくさんいるし、足の不自由な兄もいる。 父は孔子が3歳の時に亡くなった。 母は17歳の時亡くなったというから(他説あり) ←ここまでちょっとかなり不遇 それまでの生活は母の仕事によって成り立っていたのだろう。 しかし祈祷師(時代ですね)である母は不在がち。 孔子はおそらく、必死に農業を続けたり、 周囲の人たちの雑用を引き受けたりしながら姉たちと暮らしていたことだろう。 また母の仕事を見ながら、 次第に礼楽に関する知識を身につけていき (母ちゃん祈祷師ですから。この時代はしかしうさんくさくなぃのか?) 現状から脱却するには(いつだって貧乏は悲しい) 「知識」によって生きていくほかは、ないと気付くようになる。 貧乏の輪廻は学問によってしか脱却できなぃって言ったのは誰でしたっけ? 武の母ちゃんだっけか?(菊次郎とさき ビートたけしの育った家庭っちゅね) しかし学問ぢゃなく、ボクシングによって生きていくほかはないと決意するのはロッキーです。 そしてそれが有名な 『吾(われ)十有五にして学に志す』です。 『三十にして立つ』 よく茶化されますが、何が立つんぢゃなくて、お弁当のフランクが立つんぢゃなくて 「立つ」は自立、独立、ひとり立ちです。(朝・・・・ ←ばごぉぉぉぉぉぉ) 青年時代の孔子の生活も詳しい事はほとんどわかっていないそうですが、 母の仕事の影響を受けて、文学を知り、礼法を知り、 そして「知識」によって生きて行こうと決意して←ボクシング無かったから まず村の役人になることができた。 ←市役所レベル? しかし、その礼法は、あくまで祈祷師としてのそれであり、 社会全般、まして国家としてのそれではない。 今では、中国における学問の開山、道徳の開発者、政治学の父、 そして学校の創始者。偉い人になるまでの道は長いっちゅね。 おそらく、天下に通ずる礼、伝統的に守り続けられてきた礼法を学ぶため、 必死になって各地を訪れ、知識人に会っては、自分なりに整理し、 そして体系づけていったことだろう。←当時の知識人にとってはまさに後世畏るべし この努力が孔子の基礎を作っている。←貧乏生まれ、貧乏育ちなのに負けないで偉いですね。 それが次第に周囲に認められ、魯の朝廷にも聞こえていった。 孔子に教えを乞う門人も現れてきた。ようやく自分の進む道に自信がついてきた。 七十まで続く。腰まわしてぇ・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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