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テーマ:プロ野球全般。(13242)
カテゴリ:野球
7月18日に開幕した第93回都市対抗野球は、東京ドームで接戦が続いています。その大会に久しぶりの出場を果たしたチームがあります。JR西日本です。
JR西日本は大阪市に本社を置きますが、同社の野球部は広島市が拠点です。そのため都市対抗野球でJR西日本は「中国地方代表」として出場しています。 このチームは国鉄時代に「広島鉄道管理局」として活動していましたが、当時は今よりも実業団の野球チームが多く精力的に活動していたことや、全国に国鉄系の野球チームが活動していたためか、なかなか全国大会へは進めませんでした。JR北海道、JR東日本、JR東海、JR九州が都市対抗に何度も出場し、プロ野球(NPB)へたくさん選手を輩出していったのに比べ、JRグループの社会人野球チームとしては存在感が薄かったのです。 存在感の薄さに拍車がかかったのが2005年のこと。 2005年4月のJR福知山線での脱線事故で、JR西日本・野球部は同年7月に活動休止となりました。その事故は絶対に忘れることができません。主力選手は活躍の場を求めて他チームに移籍(転職)していきました。 事故後、「加害者」としての罪悪感に苛まれつつ、自分たちにできることは何か。そんな黒歴史を乗り越えての都市対抗出場となりました。 休部経て再び集結 JR西日本、17年分の思いをドームに 都市対抗(25日、毎日新聞) 野球部の突然の休部により、仲間とともに東京ドームへ行く夢を断たれた選手たちがいた。それから17年。4人は監督やコーチ、マネジャーになり、9年前に活動を再開したチームとともに都市対抗に臨んだ。 23日に初戦を突破したJR西日本(広島市)は、25日の2回戦で北海道ガス(札幌市)と対戦する。4年ぶり5回目の出場を果たしたが、過去に8年間休部したことがある。2005年4月25日に兵庫県尼崎市で乗客106人と運転士が死亡し、562人が負傷したJR福知山線脱線事故が発生。事故を受けて同年7月に休部した当時のチームの主将が田村亮監督(43)、副主将が田中龍二コーチ(41)で、水口義友マネジャー(43)と立村万太郎コーチ兼マネジャー(40)も選手だった。 1935年創部の古いチームだが、休部前は都市対抗に出場したことがなかった。入社7年目の外野手だった田中コーチは「本心では野球を続けたかった」が、前年に結婚していたため、迷った末に社業に専念することを決めた。投手だった水口マネジャーは5年目を迎えていたが、「腰のけがで満足にプレーできず、休部なら野球をやめるしかなかった」。外野手だった立村コーチ兼マネジャーは前年に入社したばかり。現役続行を考えて他チームの練習会に参加したが、「事故でお客様の将来を断ち切ったのに、加害企業の人間がやりたいことを続けていいのか」と迷いを抱えたままプレーしたためか、採用されなかった。3人は会社に残り、駅員などを務めた。 一方、5年目の内野手だった田村監督はJR九州(北九州市)に転籍。「JR西日本の代表として、野球を諦めた仲間たちの分も」という思いでプレーした。35歳だった2014年まで現役を続け、09年の日本選手権優勝や10年の都市対抗準優勝に貢献した。 JR西日本の野球部は13年に活動を再開。水口マネジャーは志願してチームに加わった。若手選手ばかりで再スタートしたチームは14年、都市対抗に初出場を果たし、17、18年には8強に進んだ。立村コーチ兼マネジャーは昨季、田中コーチは今季、チームに復帰した。昨季就任の田村監督は「我々は加害企業。そのことは選手も心に刻み続けなければ」と訴え、田中コーチは「野球をやれるのは当たり前ではないし、選手は感謝してほしい」と言う。 23日、四国銀行(高知市)との1回戦は延長十回タイブレークの末、3―2でサヨナラ勝ち。17年前の仲間たちの思いも背負い、初めて東京ドームで采配した田村監督は「監督としては初めてで、選手時代とは感じ方が違った」と戸惑いつつ、初戦突破に「うれしい」と声を弾ませた。【来住哲司】 (引用終わり) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jul 31, 2022 10:55:24 AM
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