阪神・淡路大震災から今日で28年が経過しました。
私が小学2年生だった時に起きた出来事から、こんなにも歳月が経ったことに、ただただ驚くばかりです。そして1995年1月17日に発生したこの震災をはじめとする、平成初期に起こった出来事が次々と「遠い存在」になっていることに、私は寂しさを感じます。昭和どころか、
平成初期が遠くなってしまいました。
私にとって阪神大震災とは、生まれて初めて自分事として捉えた災害でした。私が東京で過ごしていたあの日々。神戸(特に灘区、長田区)での深刻な状況をテレビの映像で見せつけられたことを思い出します。それは「母の故郷だから」「祖父母が住んでる町だから」。他人事ではなく、自分事として捉えることができたからこそ、悪い意味で大きく印象に残ってしまいました。
当ブログで毎年1月17日にこの震災に関する特集記事を書いている理由も、「自分事」として捉えているからです。
三日月大造・滋賀県知事は、震災当時、
JR西日本の職員として働いていました。この人も、震災の時期には神戸市内の現場に立って、被災地の人々の活動を支えていました。
新長田駅前は焼け野原…当時JR社員の滋賀知事、阪神大震災を回顧(17日、毎日新聞)
「新長田駅前は信じられない焼け野原だった。街の色が変わっていた」――。1995年の阪神大震災から28年の17日、当時JR西日本社員だった滋賀県の三日月大造知事が、被災地の様子を定例記者会見で振り返った。知事および関西広域連合長として「地震の記憶、教訓を刻み込み、防災対応能力を高めることが重要だ」と強調した。
三日月知事は当時23歳、JR西入社1年目だった。山口県岩国市の山陽本線・岩国駅の駅員で、勤務中に阪神大震災が発生したという。「相当な揺れを感じた。警報や放送が鳴り続け、尋常ではないことが起こったことを感じた。午前6時以降、動き出すはずの新幹線などすべて動かない。復旧見込みも立たない。被害状況が分からない」と直後の様子を振り返った。
被災地での「支援勤務」を駅長に志願し、95年2月から4月にかけての約2カ月間、神戸市内の新長田駅や神戸駅で勤務した。
「家族の捜索をされる方、がれきの片付けをされる方、亡きがらを抱えて家に帰られる方……」。仮設駅舎で働きながら焼け野原になった新長田駅前の様子を見て「復興はいつになるのか」と思った。一方で、ボランティアたちの被災地での活動を見て「復興の灯がともり始めたんだ」と実感したという。
震災28年の17日午前5時46分、黙とうをささげたという三日月知事は会見で「関西広域連合長として初めて迎えるこの日、地震防災に対する思いを新たにしたい。地震被害を小さく、なくすための意識、知識、組織を強化していきたい」と述べた。
【庭田学】
今日の神戸の復興や再開発は、大勢の人々の協力があって成り立ちました。そして多大な悲しみの上に今の神戸が成り立っているのを忘れてはいけません。神戸に縁のある人間として、肝に銘じます。
1・17を忘れない。がんばろう、神戸。