知的好奇心を引き出すこと→人に刺さること
テレビを見て「売れればいい」のか「いいものを売る」目的の違いはすぐわかります。将棋の藤井聡太五冠が凄いことは皆がわかって人気も高いと思われます。ただ、何がどう凄いのか具体的にわかる人は何%いるでしょうか。藤井五冠の孤高の境地はわかろうとしても難しい所にあります。ルールを知っただけでは全く着いてはいけませんが、オリンピックの競技、カーリングはやや異なります。ハウス内の石を見て、即座に次の一手を編み出します。しかも、次の次の手のことも考えています。奥が深いためにわからない部分が多いにも関わらずとても感情移入できます。次の一投が思ったとおりにいかなかった時の落胆、また大きな挑戦がうまくいった時の爽快感は他の競技にはない魅力です。ゴルフに似たところがありますが、一手毎に状況が一転するのはまさにスリルです。このような共感はテーブルゲームの将棋や囲碁、オセロにもないものです。努力によってできるようになる他の競技とは異なるカーリングの魅力は、その日のアイスの状況や相手の出方によって運命が変わり、旅に例えられます。先攻・後攻によっても大きく状況が異なるために我慢も強いられます。さまざまな要因が影響してうまくいくこともいかないこともある、まさに人生です。フィギュアスケートやスノーボードは信じられない凄い技で魅了されますが、どういうステップであったか、何回まわったかなどは何度見ても難しいです。技の名前も意味がわかっていないこともありますが、それでも見入ってしまいます。わからなくても見続けられる競技と、そうでもない競技は人によって変わります。これは知的好奇心を引き出せるかどうかがまず大きなポイントだと考えます。見せる、教える、演技などは見ている側の知的好奇心を引き出せるかです。誰でもわかるように優しく教える、可能性を潰さないように褒めて育てたとしても、受けている側に知的好奇心が芽生えなければ自力を伸ばすことはできません。つまり知的好奇心を持ち自ら研究する習慣が身に付かなければ、どんなに優秀な先生が優しく教えても力が伸びないと言うことです。ルールを知る、習得すれば達成感を得る、どうすればさらに伸ばせるかを考える、この行程を習慣になるようにやらされるのではなく、自ら考えることが必要です。しかし、SNSやテレビで見ることはどうも底辺を広げて賛同だけを得ようという感じの、初心者や子供対象の目線で、本来の良さを薄っぺらくしてしまっています。例えば、藤井五冠がどのように強いのか、カーリングの戦法はどうなっているのか、それらが知りたくなる報道がよくて、もぐもぐタイムで何を食べたかではないはずです。生徒思いであるとか優しいとか怖いとか、先生の印象は教える術のひとつであって、生徒の知的好奇心が上がれば成功で、先生のキャラクターは関係ありません。例えば五輪のように、実力以上の能力を引き出してメダルを取るための練習は、厳しいに決まっているのであって、それを選手がどう受け止めているかです。厳しい練習=怖い先生なのか、生徒思いの優しい先生かは生徒の主観です。フィギュアスケートのロシア・ワリエワ選手のドーピング問題について、ワリエワ選手への同情の声が多いようですが、うっかり飲むなんてことは考えにくく、今は15歳でも先生に対して簡単にNoと言えますから、本人の責任はあると思います。ワリエワ選手を15歳だから考慮するということはないと感じるのです。周りの大人がけしかけたり強要したとしても、目的は勝ちたかったからです。今回のスポーツ仲裁裁判所の条件付き出場は配慮が行き届いていて正しいと思います。ワリエワが誤解を受けていると言うであれば、しっかり演技をすればが良かったのです。そこで動揺してしまったかのように演技が受け止められたのでは、コーチのエテリ氏が演技直後にワリエワに問いただすのも仕方がないとも思えます。このような推測も可能なのであって、コーチが冷徹だと一概に言い切れないと。バッハ会長の「ワリエワに投与した人が悪い」と決めつけるのは尚早な気がします。知的好奇心、音楽で例えるとピアノや作曲をしたい人はいても一流になろうとすれば、指を鍛えるメトードや和声学や対位法など作曲理論を勉強することになります。しかし、それは好きになれない人がいてやりたくないと言う人が増えています。そこでこそ必要な教師のスキルは、生徒に如何に知的好奇心を持たせるかなのです。知的好奇心を促すことが上手い人が世の中に進出する時代になりました。伝統的に今までの文化が構築されてきたにも関わらず、それを否定する勢いです。日本には芸術や文化という美学が公に平等に評価される機構がありません。それは日本という独自のアイデンティティが確立されないことを意味しています。