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三年生の孫の学校へ、劇を見に行った。
たくさんの子が出演できるように、同じ劇を2回、キャストA とキャストBと変えて演じる。 孫は、キャストAで、「小鳥三羽のうちの一羽」の役をもらい、鳥のお面や、翼をボール紙でつくり、張り切っていた。 劇には、蝙蝠たちとふくろうたちと、なんだかわからないけれども、その他の小鳥がでてくる。 まず、こうもりの母子が、梟においかけられて、母子は別れ別れになってしまった。 母は蝙蝠の群れに帰ったのだけれども、迷子になった子供は「鳥」と出会い、その巣で一緒に暮らしはじめた。 鳥のおかあさんが、一緒に面倒を見てくれるので、蝙蝠の子も、子鳥たちと楽しく暮らしてはいるのだけれども、どうも、昼間に餌をとりに行くときは元気がなくて、あまり結果も芳しくないし、夜になると、寝ていられなくなるし、他の子鳥たちは 足の裏全体で枝につかまって立っているけれども、自分は足指でつかまってぶら下がっている方がリラックスできる。 なんだか変だと、蝙蝠の子も、鳥の子たちも思っている。 そこに、ある時、たまたま蝙蝠の一群がやってきて、その中に母蝙蝠もいて、母子の再会を果たし、蝙蝠は蝙蝠で、他の動物と違っても、夜起きていても、木からぶらさがっていても、気にすることはないし、それでもみんな仲間だし, 違いは尊重し、include とaccept をしようという話になる。 そこへ、今度は、梟たちがやってきて、蝙蝠や他の鳥を追いかけるのだけれども、すばしこく逃げられてしまうので、「まあ、鳥同士食べなくても、ネズミでもおいかけようよ」と去って行ってしまうので、そこにも、互いを尊重し、include とaccept するという状況が生まれて、めでたし、めでたし。 と、終了したところで、先生が、「この劇のテーマはinclude and accept です。 では、include って、どういうことですか?」と訊ねる。 生徒たちは、口ぐちにいろいろ言うが、まあ、「仲間はずれにしないで、仲良くする」というような線で落ち着く。 そこで 「では、acceptはどういうことですか?」と尋ねられ、これもきっと、何度も教えられたのだろう、口ぐちにいろいろ言うのだけれども、なかなかむずかしいらしくて、ぴしゃりとした言葉がでてこない。 すると、見ていた大人の一人が挙手をして、"Accept is not judging" と言った。 「大人がでしゃばるなんて、あり~?」と思ったけれども、先生が言ってしまうよりはよいらしい。 (あとで聞いてみたら、その人は、生徒のお母さんだけれども、他の小学校の先生だそうだ。つまり、生徒から答えがでない場合には、助け合う約束になっていたサクラ?) 先生は、”Yes, she is right. Accept is not judging." と大きくうなずく。 まあ、蝙蝠が逆さにぶら下がっても、他の鳥から悪いと批判されるにはあたらないだろう、たしかに。 なるほど・・・、つまり、自分と違うことをしたり、意見の違う人がいても、よいとか悪いとか言わずに、受け容れることか・・・と、私は妙に感心して帰ってきた。 他民族の集まっているカナダでは、文化も違うので、お互いに違いを認めて、それを自分の標準にあてはめて善悪を言うことがよくないという教育は、とても大事なのだろう。 ・・・だが、よく考えてみたら、そんなに感心しているのは、どうもよくないような気がしてきた。 いつも、ACCEPTばかりしていたら、たいへんなことになりそう。 やはり、程度によりけり、場合によりけりで、あるときは、しっかり善悪を判断して、反対するところは反対しなければ、人にだまされっぱなしの人生になるのではないかしら? 私なども、ACCEPTして感心してしまう方だけれども、これではいけないと、これまでに何度思ったことやら。 自分を守るのは、最終的には自分しかないことを、もう少し教えてもよいのではないかしら・・・と思う。 そこの兼ね合い、線の引き方が、教育者としてもむずかしいところなのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
July 6, 2013 02:35:02 PM
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