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カテゴリ:文章論
論理的な能力の話を以前に書いたことがある。現在の日本社会の問題点のひとつは、「他者が見えなくなっている」ところにあり、それが論理力の衰退という形をとって表れている。これがその時の私の作業仮説であった。
それでは論理を重視する欧米圏の教育はどのように行われているのか。もちろん私はそんなことは知らない。ただ、主に欧米で教育を受けてきた18歳前後の生徒とは日常的につきあいがあるから、彼らの様子からどのような教育が施されてきたかを類推することはできる。 たとえば、現代文の選択肢問題を説明している時、こういうことがあった。それは本文の内容に一致しているか、していないかを○か×で判定させる問題だった。 選択肢が5本あったので、私はまず生徒を5人指名する。一人につき、一本の選択肢を担当してもらうのである。 そして、何をするかを説明する。「今、指名された人には裁判官になってもらう。まず、選択肢を自分で読み上げる。次に、その選択肢が有罪、つまり×か、無罪、すなわち○かという判決を下す。判決の後には、その判決の理由を述べてもらう。殺人事件の裁判で、「被告を死刑に処する。なぜならば、なんとなくやってそうな顔してるから」ということはありえないだろう。だから、理由はカンじゃだめ。被告の指紋がついた出刃包丁とか、そういう物証がないと、有罪を立証できない。選択肢の裁判でも、有罪の場合は、本文の何行目に○○と書いてあるから、というように、「物証」を示してほしい」 そういって、しばらく裁判官に検討の時間を与える。 「裁判官以外の人間は傍聴人、あるいは陪審員のつもりで裁判に参加すること。裁判官の判断に異議があれば、すぐに「異議あり」と発言すること。その場合にも、その異議の根拠を証拠にもとづいて指摘すること。いいね」 これで準備完了。後は各裁判官の判断を待つだけである。 生徒は高校修了段階まで外国で教育を受けてきた者たちが大半である。欧米圏以外で生活していた者も少なくないが、インターナショナルスクールに通っていた生徒が多く、欧米流の指導を受けていた可能性は高い。 さて、彼らはそこでどのように考え、どのように語るだろうか。 本文の具体的な箇所にもとづき、理路整然と自分の判断理由を述べるかというと、実はそうでもないのである。彼らはかなりしどろもどろに、ああでもない、こうでもないと、行きつ戻りつしながら、なんとか理由を説明しようとする。でも、その説明はなかなか核心に触れることができず、論旨も明快とはいいがたい。 なんだ、欧米流の論理教育もたいしたことないじゃないか。そう思われるかもしれない。私も正直にいうと、以前にはそう思っていた。しかし、彼らの様子をよく観察すると、必ずしもそうとは言い切れないのである。 まず、指名された生徒は、「えーと、よくわかりません」とはいわない。下を向いて沈黙することもない。日本ではほとんどがこの二つの反応のどちらかだが、「わかりません」と「沈黙」がないのが、彼らの特徴である。 そして、とにもかくにも自分のことばでなんとか筋道立てて説明しようとする。結果においては、それが成功しているとはいいがたいが、彼らが途中で放棄せずに、なんとか最後までことばと論理で説明しようとしていることはたしかだ。 そして、まわりの生徒はその発言に注意深く耳を澄ましている。彼のことばを真剣に聞いている。この雰囲気は外国で教育を受けてきた生徒に特徴的なものである。 欧米流の教育が、結果として論理力の養成に成功しているかどうか、断言する自信は私にはない。いや、どちらかといえば、成功していないといってもいいかもしれない。少なくとも18歳前後の年齢層においては。 しかし、最後まで論理的に説明しようとする意欲と、他人の論理的な説明に注意深く耳を傾ける姿勢を涵養することには確実に成功している。そう思う。 そして、もうひとつの特徴。それは、生徒の説明を受けて、私がなるべく明快に選択肢の当否とその根拠を説明すると、その説明の核心部で、彼らがこくんと小さくうなずく、あるいは目が一瞬輝く、「そうか」とこころの中でつぶやく。それが手にとるようにわかるのである。論理的な説明の核心部で彼らがすとんと「落ちる」のがわかる。 ここは説明がむずかしいところだが、彼らは論理だけで「落ちる」、つまり得心するのである。それに対して、一般的な日本の生徒の多くは、「なるほど、あなたの説明はよくわかった。でも、ほんとうに自分が納得するには、もうひとつ、情緒的、情念的な「押し」がほしい」という表情をするのである。そこでは「論理+情念」が必要になる。そして、おそらく、そこでは「論理なき情念」による説得も、あるいは可能になってくるのかもしれない(私はそういうことをやったことがないので、よくわからないが)。 欧米を中心とする教育では、論理的に説明しようとする意欲、その説明を慎重に吟味し、受け入れようとする姿勢を育てることには成功しているように思う。 そして、よく考えると、この二つがあれば、論理的な思考力や説明能力は自ずから育っていくのではないだろうか。 とくに論理的な説明を受け入れる姿勢。これは重要である。しかし、彼らを説得するのは必ずしも容易ではない。彼らはきわめて「頑固」であり、なかなか納得しない。粘り強く食い下がってくる。しかし、ある瞬間、論理的な説明が彼らのもやもやした部分を光で照らした時、彼らは「すとん」と落ちる。そこで目が輝き、すっきりとした顔をする。こちらはそれを見て、「以上、終了」という形で説明を終えることができる。 他者の論理的に明快な説明を受け入れることが、ある種の「快感」につながる。そういう感覚を彼らはもっているのだと思う。自力ではつなげることのできなかったあるものとあるものが目の前であざやかにつながった時の、背筋がぞくっとするような快感。その快感を彼らは知っているのである。 そう考える時、論理的な能力は、けっして機械的な演繹力のみを指すのではなく、どこかで他者とのコミュニケーションとつながりをもつものであるように、私には思えてならないのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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M17星雲さんには畑違いかと思いますが、池田信夫氏のblogで面白いエントリがありました。
インターネットはいかに知の秩序を変えるか? http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/26ee2206c5b75d297a059ad5b4a573c9 コメント欄に「知を言語と論理という狭い範囲に押し込んだ西欧・近代」といったような書き込みがあり、へぇなるほどと思ってしまいました。 今回と前々回の記事を読んで、つながるものを感じましたのでご紹介まで。 (2008.08.30 01:39:51)
ああ、これはおもしろいですね。そうか。彼我の里程は能力の違いではなく「土俵」が違うんですね。
彼等は最初から論理という土俵の中にいる。 僕達は最初から情緒という土俵の中にいる。 違うスポーツをしているんですね。 (2008.09.04 08:52:52)
shinさんへ
うまく書けたかどうか自信はありませんが、論理的能力はマニュアルによるトレーニングで鍛えられるものだけではなく、それを尊重する環境のなかで育まれるものだということを感じています。さらに論理というと自分の意見を発信する時に用いられるものというイメージがありますが、他者の論理を受信する感度を磨くことも大切なことではないかとも思います。 (2008.09.05 06:19:45) |
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