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12月に書いた文章を改めて読む機会を持ちました。
実は、12月に書いた文章…とにかく書く!という感じで、見直していない…?そう思いたいけど、よく見ていなかったのかも…と思うくらいに書いた内容を覚えていないうえに、自分で読んでへぇ~ってビックリしながら読みました。 何かがのり移る?そんな勢いで書いたり、話したりすることがありませんか? 話しているときは、本人だけが違和感…というのか、声が違う気がすることがあります。 それに近かった。 ずっとなぜその仕事についたのかを思い出しなさい…そんな言葉がいろんな機会で目にしていました。 ん… その答えに近いことを12月に書いていたのです。スゴイ… 改めて読み返した時に、その言葉を目にして…驚きました。 何かをしてあげられたらいいな…この思いっ て昔からずっとありました。それを素直に出せたことは本当に幸せです。 この言葉が全てでした。 素直にその思いだけで動く…それなのに悲しい思いになることも多々ありました。 疑って相手を見て、本当に目の前に見えているままなのか?裏に隠されている本音は…?なんて見てしまう癖がついたのは、この仕事についてから…でしたね。 何かしてあげられることはないのか? あぁ…そうだったなぁ…ってね。 森信三さんの言葉を今日聞きました。 「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。」 言葉を聞いたときではなく、「森信三」さんと聞いたときにアラ?と思いました。 調べてみて、同一人物とわかったのでした。 そう、「立腰」論の本をお借りして、まだ…読み終えていない… 紹介いただき、朝の清掃活動に3回くらい参加しました。 なるほど… どのような意図でこの言葉を森信三さんが発されたか…そんなことを思いながら調べてみました。 そして、今日伺った言葉をどのような意味でおっしゃったのか…と共にね。 「しかし、内に求める心なくんば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。」 実は、続きがあり。 なるほど… シミジミとこれまでを振り返る機会となりました。 そして、12月に書いていた文章を読みながら、あぁ…そうか…ってね。 たくさんの人と出会ってきていて、何を学んできていただろう?何を見てきていただろう?そう思わされましたね。 お互いに相手がどうやってきたなんて見えていませんよね。 そういう意味では、お互い様に理解できていないことの方が多いと思うのです。 そのうえで、どう相手を見るのか…それは、見方一つで見えている部分は多々あっても異なる評価になりうる。 そうだなぁ…って思いました。 何をするにも神様相手、人が知ろうが知るまいが、神様が見ていらせられる。 神様は、言う事、なす事、思うこと、見抜き見通しに、心の底の底までも、見ていらせられる。 人は知っても知らないでも、神様はお相手に、世のため、人のため、清い正しい心で尽くしましょう。 神様は必ず正しいものに御味方下さる。 本当にそうだなぁ…をいくつも眼にする日でした。 今日、あと思い出された言葉…思い出した?今思い出せない…なんて陥ってますが… 有難いという言葉を思い出したんですよねぇ… 「有難い」 誰かが何かをしてもくれるなんて… あるハズがない これが基本なんですよね。 自分でどうにかしなければいけない…という大前提で思ったとき、 わからないことを教えてくれたり、 困っているときに助けてくれたり、 そんなことも全て、有難い…って「ありがとう」と書くと「有難し」の持つ意味が見えにくくなるけど…、当たり前じゃないんだよってことを改めて思い出させられました。 そう思ってずっと振り返っていくと、本当に「有難い」ことがたくさんあっていて、たくさんの有難いことを得ていることに感謝するとともに、それらを有難いと思っていたかな?と思わされました。 いろんなご縁をいただいていたことを振り返り、全てをきちんとご縁と思っていたのかな?ということと共に、父が亡くなって不安でずっとたまらなくて誰にも頼れない気持ちとどうにかしなきゃいけない気持ちと…いろんなことを思って過ごした一年を終え一周忌の法要で多くの方々が支えてくださっていることに気づいたとき、なんて有難いんだろう…って思ったことを思い出しました。全てが有難く、何もできないなぁ…と自分ができることの少なさとそんな自分でもできることをとにかくするしかないということと、ありがとうという言葉が口癖になっていた自分を思い出しました。 キャリアという言葉が昔使われていた意味ではなく、現在は使われている…ハズのことなのですが、ナカナカ伝わらないで狭義で使われることがまだまだあります。 キャリアとは、死ぬまでの全ての経験みたいなくらいに大きな見方で考えられるようになっている昨今、何をどのように体験するか、そしてそれを通して何を学ぶか、全てがキャリア…。進路を考えるって、昔は出口のみを考える発想でした。しかし、入ること、過ごすこと、出ること…全てを考えることをキャリアととらえる…。入口のことだけではない視点の重要性を思います。 昔、インターンシップ体験の多少がどう人に影響するのか…と思わされました。どんなことでもそうですが、単に働ければいい…なんて思っている人は少ないはず。だけど、実際にインターンシップ体験を通して、実はよりよい条件で働けるようになりたいという思いを多くの人が持ちます。そして、今できるそのための努力をしようとする…実は、この部分が本当は注目されているから、中学校でもインターンシップをなんて言われているんですよね。ただ、短期間であると、お客様で終わっているという実施報告が多々。短いということが狙っている成果を生み出していないというわけで…。 生活を送ることを具体的に考えるということをすると、生活費がたくさんいることに気づくというのも実はインターンシップ体験と同じくらい大事だと思っています。収入を得る大変さを知ることと、生活するのにかかるお金が具体的に頭で想像できること、どちらもできるとよりシビアに将来のことを真剣に考えるなぁ…って私は感じ取っているのですが、比較して、その両者ともにできていないと自分の将来に対して考えが甘いがゆえに今すべきことへの取組みがおろそかになる人は多いって思います。今すべきをおろそかになっている由縁の一つはそこにあると思っています。今の頑張りが将来の生活を左右すると意識するときが早いほど、取り組み方が変わる…。これが大きいと思うのです。 なんとなく受けていた授業が、自分の将来の生活をより良くするためにどのように重要なのかに気づく…それは、社会で働くという体験または、自分の生活費等が具体的に理解できる体験があったときに、今のこれをちゃんとしたら…って取り組む人を生み出していると思うのです。ただ、残念なことに、それに気づいても取り組まない人がいるのですね。それは、自己効力感が乏しい人…。成功体験を持ち合わせていない人…。 豊かな生活を享受できる時代、大人にならなくてもよいように錯覚して育っていると、多分、勉強しないんだろうって思います。だったら、さっさと働き始めて仕事を覚えた方がいいと思うのです。仕事を通して学ぶことがたくさんあるのだから、もしかしたら、仕事をする中で、高校で学んだり大学で学んだりしていたらよかったね…っていうようなことを学んだりするのだろうって思うのです。いつからでも、必要な学びはできると思うのですが、本当は一番かわいそうなのは受け身の学び方を身につけている人たちだと私は思います。たくさん出会ってきたのですが、そういう人ほど、自己効力感が低かったりするのです。そうすると、勉強するという学校生活は無事に送れるのですが、将来自分ができることがないと思っている…そんな人に出会ったりもしてきたので…思うことは、たくさん与えることが大事なのではなく、たくさん自らで求めるようにすることが大事だと思うのです。 キャリアが言われるようになった背景は、会社が給料を年功序列的に払えないという判断で、違った対応を迫られたことによるところもありますが、様々な視点でキャリアを意識して自分の人生を見た時に、学生までだったら…できる限り勉強するということがどれほど大事かという気付きをしている、ちゃんとキャリアの在り方を理解している人と、単に進路を考えてきた人に少しわかれる…残念さがもったいないとは思います。 国が言っていることを都道府県が受けて言う… 体制がそのようになっている行政組織の在り方はどの分野も同じなのに、異質のモノのように言う…ことも本当は残念無念…なのにねぇ…とも。 頭に思いついたことを次々に書いていったので、とびとびに違うことを書いているなぁ…と思わされています。 自分にとってはわかるけど…誰かが読むなんて考えられていない文章で… すみません。 私は、たくさん与えられてこなすことを強要されている人たちがこなせることをマックス100としたら、自らでたくさんをこなさなければいけないと自覚して取組みこなすことができる量は200も300も…ってなると知っています。これが一番学習するというところで大事なところだと思っています。その自ら取組むことを引き出すテクニックの一つがキャリア教育だという認識を持っています。 そして、一番大切なことは、保護者…親のスタンスだと思います。過保護も放任もイマイチと思っています。 キーワード的に思いつくのですが、文章にならなくなってきたので寝ます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 18, 2017 01:12:20 AM
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