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2009年09月13日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
朝吹真理子『流跡』、新潮2009.10.。

小説を読んでいるときの浮遊感、
どこにむかっているのか、どこをたゆたっているのか
わからぬままに、読んでいる、
文字を追っている、その無目的な状態を感じている快楽。

どうして詩ではないのかとおもいつつ、
でもやはり小説なんだろうという気になるのは、
ところどころで浮き島のようにちょっとだけ物語性があらわれ、消え、
またあらわれては消える、そのエクリテュールの静かな湖のゆえ、
なのだろう。

物語がすすんでゆく、一種の牽引力で、いつのまにか読んでいる、
というものではない。
物語はあるともいえるしないともいえて、
こちらはひたすらにそれぞれの語の、単語の、サンタックスの、
文章のながれに眼をおいて、たどっている。
ときに独特な、オノマトペの多い、
いまどきはほとんどつかわれることも稀な語彙をまじえた、文章。
読むことから書くことへと、物語らしいものを経由しながら、むかう、
ことばといやおうなしにつきあってしまうものの「物語」。

ひたすら自閉しているかのようなのに、
神話に、伝統芸能に、現代の日常に、奇妙なつながりを持ちつつ、
本からコンピュータの画面へと、ことばを介して。
まるきりそうみえないかもしれないけれど、
じつはものすごくヴァーチャルな、小説、なのかもしれない。
いや、逆に、ことばで何かをつむぐこと、のヴァーチャルなありようを
あらためて喚起しているのかもしれない。

こういう小説が読みたかったな、とおもう。
処女作をこんなふうに言うのは、すぎたことかもしれない。
それでも、これは個人的な読みとして、だ。
原稿用紙にして110枚程度、という。
それでいて、ランダムにひらいて、ほんの数行、
何の意図もなく、ただ拾い読みができる、
詩行のように屹立するのではなく、
前があり後ろがあって、
その「あいだ」につねにあり、
だから逆に、いつでも読むのをやめられもする。
わたし/わたしたちのつねにそれてゆくことばのありようと
かさなったりそれたりする、文字のつらなり。



このごろはそれほど熱心に新しい小説、
若いひとの小説を読んでいる、わけではない。
(ほんとはもっと熱心に、が望ましいのだろうけれども、
「文芸・ジャーナリズム論系」の教員としては。)
だから、知らないものも多数あるだろう。
あるだろうが、『流跡』はほかのものとはかなりちがっている、
にちがいない。
身近な、現代の、日常、というところにことばがそのままぴったりと、
というところから書かれてはおらず、
ことばの、まず、ことばの、というよりは、ことばと身体のありようが
作品化されているのだから。
ついつい二重に三重に四重に、
ロジェ・ラポルトの、蓮實重彦の、古井由吉の、折口信夫の「小説」を、
江戸時代の戯作を、いくつもの映画を、おもいおこしている。

比喩、オノマトペの触覚性、
五感にふれてくるものたちの名、名詞の肉感性はものすごい。
これは……ついつい、父上の、朝吹亮二の詩をも。

文章、それもフィクショナルなものを読むとき、
書き手じしんはほとんど気になることはない、
おもいだすことはない。
それがふつうだ。
書き手とは切れている、これはちがうものだ、とおもっている、
べつのものとして読んでいる、
にもかかわらず、
書き手じしんをとおりこして、肉親の、やはり文字のならび、が
読み手たるわたしのなかに喚起される、というのは、どういうことか。
よくあるような、
親が文章を書き、子がやはり文章を書く、
そういう血族としての、遺伝的形質として以上に、
ここにある言葉のありよう、音の感覚、皮膚的な感覚は、ちかい。
はたして言葉を媒介にして、なのだろうか?
娘は父の詩集を読んで、影響をうけている、のだろうか。
わからない。
たぶん、読んではいないのではないか。
読んだことはあっても、愛読はしていないのではないか。
むしろ父とのつきあいのなかで、
口から発せられる言葉や身体的な所作によって、
あるいは文字どおりの遺伝的な近さによって、
ことばのあらわれが近いものになっているのではないか。
そんな想像をしながら、わたしは混乱する。
こういう読み方をしてしまっていることに戸惑う。
それは単独の作品『流跡』とは何のかかわりもない。
しかし、しかしだ……。
そしてまた、ことばをつむぐ系譜なるものがあるとしたら、
それはどういうことなのか。
それはどういう種族なのか。
想像、妄想による脱線はつづく。
朝吹家という、ことばと、文字と、つながっている系譜は、と。

『流跡』は小さな、1冊の本として、あればいいのに、
とおもう。
それを手元においておくのは、いいだろう。
そんな贅沢はありえないだろうけれども。







Last updated  2009年09月13日 12時00分02秒
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