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カテゴリ:親子
ブロブ仲間のブログで
>それでも、子どもを、動かしたいと思いますか? >それが、愛情・・・なんでしょうか? という一節が目に(心に)飛び込んで来ました。 親たちは、(以前の)私も含め、「子どものため」を思って、 また、「よかれ」と思って、いろいろな「働きかけ」を子どもたちにします。 働きかけの中身をみると、それは、主に 「言葉かけ」であることが多いと思いますが、 助言したり、批評したり、がんばれと励ましたり、訂正したり、 あるいは、子どものやることを手伝ったり、先回りして準備したり、 という「手出し」も含みます。 どれにも当てはまらないけれど、結構「重い」のが 「念じる」というもの。笑 これは、当人が思っているよりも、結構キツイものだと私は思います。 当人(親)にとってもキツイだろうけれど、 それ以上に子どもにとってキツイのです。 特に、親の方が、自分の正当性、つまり子への愛を疑わないとき。 これは誠にキツイ。 子どもも無意識では親の欺瞞(?)に気がついているのだけれど、 だから、キツイのだけれど、 親の愛情、親の親切、親の正しさ、を 信じ込まされていて、 それから逃れようとすることはおろか、 それをしんどいと感じる自分さえ、 罪悪だと思わされ、 身動きできなくなってしまう・・・・ 動けるかうごけないかではなくて、 自分の思うように動けない、 そしてまた、自分がどう動きたいのかわからない、 つまり、自分が自分のままでいられない・・・ そんな息苦しさ、 言い換えれば、生き苦しさの中にとどまっている。。 そんな状態にあえて持っていっているとしか、 今の私には見えない。 かつての私がそうだったから。 子どもの立場も、親の立場も、どちらも経験した者。 そんな生き苦しさから 解放されたことで 子どももまた解放してやれた・・・かもしれないと思っています。 子どものことは、「解放してやった」という意識はないのだけどね。 ただ、 いま 自分が 解き放たれた小鳩のように のびのびと 大空を飛んでいるところだから 人のことをからめとっている余裕(?)はないのですよ^^ すきにするでしょ。 こどもは子どもで。 見放したのとは違います! 前よりもずっと子どもがいとおしいから^^ あれ? 書こうとしたこと、これだっけ?? まあ、いいや、このまんまアップしちゃいまっさぁ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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