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2006.08.27
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カテゴリ:仙台
前編から続く)

4 郡山遺跡の性格

 地方官衙には、国の官衙である国府、郡の官衙である郡家(ぐうけ)、蝦夷の地に設ける城柵などさまざまあるが、郡山1期官衙(学術上はローマ数字だがブログ表記上アラビア数字)は城柵、2期官衙は陸奥国府、と考えられる。
 越では渟足柵(ぬたりのさく、647年)、磐舟柵(いわふねのさく、648年)が設けられた。1期官衙は、これら日本海側の城柵に対応して陸奥側で設けられたものと考えられる。7世紀中頃国造制が施行された地域のすぐ外縁の蝦夷居住地に設けられているという、共通点があるから。
 蝦夷の居住地に評や郡を設置するには、移民を送り込んでこれを評や郡に編成した。渟足、磐舟と同様に、郡山1期官衙に際しても、関東地方から移民が送り込まれた(関東系土器が出土)。
 評や郡の設置の仕方について、蝦夷居住地域は、移民と城柵設置という2点で一般の地域で異なっていた。周囲に塀をめぐらして蝦夷の反乱に備え、また蝦夷をすぐには公民にできないから移民を送り込んだのだ。移民を編成して評・郡を置き支配領域を拡大し、移民を守りながら、かつ蝦夷に服属を働きかけた。
 郡山1期官衙は仙台平野南部でこのような活動を担っていた。

 続く2期官衙は陸奥国全体の国府であると思われる。次の4点が根拠として上げられる。
 第一に、多賀城建造(724年)前の国府は仙台平野にあったと考えられること。718年に陸奥国をほぼ2分して、石城(いわき)国と石背(いわせ)国ができる。前者は福島県の浜通りから宮城県亘理町にかけて、後者は中通りと会津の地域。従来都から陸奥国府へは中通り地方を経由する東山道が通じていたが、石城国設置で719年に石城国内に10の駅家(海道十駅)が設置され駅路(都と諸国国府を連絡する官道)が開かれる。これは常陸国府(茨城県石岡市付近)まで来ていた東海道をさらに延長したもの。海道十駅は浜通りを北進し玉前駅(たまさきのうまや)で東山道に合流。岩沼市玉崎と推定される。この駅路が陸奥国府との連絡を目的としているから、719年時点の国府は玉前駅以北のはずである。
 第二に、出土土器から。第三に、郡山廃寺が多賀城廃寺と共通性があり、その前身とみられること。第四に藤原京をモデルにしていることから単なる城柵や郡家と言えないこと。
 2期官衙建造の時期は、陸奥国は仙台平野南部や米沢・山形盆地なども領域としており、陸奥国の国府として設けられた。城柵であると同時に国府であった。『続日本紀』には715年に陸奥国府が見える。
 なお、渟足柵、磐舟柵も郡山と同様に変遷する。越国は683年以前に三分割され、越後国が置かれるが、最初の越後国は沼垂(ぬたり)評と石船(いわふね)評の二評で構成され、渟足柵に国府が置かれたと推定される。城柵に国府を置いた点でも、郡山と同様の変遷。政府が陸奥と越後で並行して辺境経営を進めた表れ。

5 郡山遺跡時代の陸奥国

 関東からの移民は仙台平野南部では6世紀末から、城柵として1期官衙が建造された7世紀中頃に本格化し、大崎平野にも及んだ。10世紀の『和名類聚抄』に全国の郷名があるが、郷は郡の下の行政単位で717年までは里と呼ばれた。同書の陸奥国の郷としては、関東諸国や陸奥南部の郡名と一致するものが検出できる。名取郡に磐城郷、宮城郡に磐城郷、白川郷、多賀郷(常陸国多珂郡)があるなど。移民が出身地の郡名をつけたのだ。
 また、『日本書紀』には689年に優耆(※山偏に耆)雲(うきたま)郡の城養蝦夷(きこうのえみし、城柵に支配される蝦夷)が出家したとある。この時に置賜郡の前身の優耆雲評があり、また城柵もあったことになる。名取、宮城とほぼ同時に、優耆雲評と最上評が置かれたと思われる。

 1期官衙の時代には、『日本書紀』によると、越国国守阿倍比羅夫が船団を率いて3度北征し(658年-660年)、秋田、能代、津軽、渡嶋の蝦夷を服属させた。同時期に太平洋沿岸でも陸奥国による遠征があったと考えられる。両国軍隊は渡嶋(北海道)では共同作戦を採った。大規模な船団を組織したが、評を通して徴兵され、評督・助督が指揮官として参加した(評軍制)。
 これは蝦夷服属という国内事情もあるが、東アジアの緊迫した情勢を反映したと見られる。大唐帝国が出現し、半島では3国が対立、日本も戦乱に巻き込まれる。この時期に国内問題だけで大軍を動かす余裕は無かったはずで、国土の北方と大陸(高句麗)との地理関係を探検するためだっただろう。この探索は、661年の百済救済戦争で中断する。

 7世紀後半は仙台平野の政情も安定し、2期官衙を建造し国府が移された。
 大宝律令施行で、陸奥国の政治もこれに則って行われた。陸奥国は国の4等級のうち最高ランクの大国として、国司は、守(かみ)・介(すけ)・など11人が2期官衙に常駐。軍制は大宝令で軍団制がとられ、陸奥国には、安積、行方、名取など4団4千人を置く。これらの兵士が2期官衙と優耆雲柵に交替で勤務した。
 2期官衙の時代は、仙台平野の北部にも本格的に郡が設置された時期。7世紀中頃から移民が進んだが、名生館遺跡(大崎市古川)、赤井遺跡(東松島市)に官衙が置かれる。705年の蝦夷反乱はこれに触発されたもの。
 715年に坂東六国から千戸の移民があり、黒川以北十郡が建郡される。一戸約20人で、千戸は約2万人。一郷は50戸なので、千戸は20郷分。『和名類聚抄』による十郡の郷数31郷と比較しても膨大な数の移民である。
 これら十郡の確立を受けて、718年に石城国、石背国が分国される。その前716年には米沢盆地や最上が、出羽国に移管される。これは全国的に地域の実情に即した支配を強化を進めるためにとられた分国政策の一環。

6 郡山時代の終わり

 715年以来の大量移民による支配強化で、720年に蝦夷が大反乱、政府は征討軍を派遣し鎮圧、722年から陸奥国再構築に取りかかる。
 石城、石背の両国を再統合し、国力軍事力を増強。前線には、拠点として玉造、新田、色麻、牡鹿など5城柵を建造、それらを後援する根拠地として多賀城が建造された。724年に2期官衙から国府が移されるのである。

○参考:花登正宏編『東北-その歴史と文化を探る-』東北大学出版会 2006年、「2 郡山遺跡の時代」(今泉隆雄)

 ■関連する過去の日記
  ○多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日)
  ○多賀城の基礎知識(後編)(06年8月7日)
  ○郡山遺跡が国指定史跡に(06年8月24日)
  ○郡山遺跡の概要(前編)(06年8月27日)





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最終更新日  2006.08.27 15:34:19
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