カテゴリ:宮城
(前回(その1)から続く)
■関連する記事シリーズ 船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日) 船岡と海軍火薬廠の歴史(その3)(2011年10月16日) ■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から (なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。) 5 学徒動員 火薬廠の生産拡張に伴い、学生や若い未婚女性が投入された。県立角田中(旧制)は、5年生を平塚の航空機メーカーに、3、4年生は船岡の火薬廠に、1、2年生は近くの山に炭焼きに出すことに決めた。学生達にはケガが絶えず、機械に挟まれて死亡する者もいた。 19年夏には、仙台二高、東北薬専、白石、角田の中学校と女学校、岩沼、鹿又実科女学校、大船渡や黒沢尻女学校などから送り込まれた。20年3月には閣議で4月から国民学校初等科以外の授業停止が決められた。文科系は既に戦地に駆り出され、火薬廠では二高生や薬専生に日常作業指揮を任せた職場もあったが、高校生の中には将校に反発し公然と敗戦を予告する風もあった。 8月15日正午の玉音放送は学徒には聞きづらかったが、午後の作業は打ち切られ、作業が徒労に終わった喪失感が漂った。二高生や東北薬専生が放心の中学生や女学生を励ました。 6 財産の帰趨 16日午前5時半には廠長ら高級幹部がひそかに御真影を焼き捨て、施設内の一切の備品や資材の持ち出しを禁ずることとした。施設面積536.4ha、建物総数1,075棟、受電設備、水道設備、引込み鉄道専用線10.27km、電話400回線など。6年間に生産した火薬類総量は無煙火薬5,355t、爆薬25,083tで、この期間に我が国で生産された海軍用火薬類のうち、それぞれ15%、25%を占める。3つあった海軍火薬廠のうち無煙火薬と爆薬の双方を手掛けたのは船岡だけであった。 占領軍に提出するため同廠が作成した在庫品目録によると、20種近い化学物質7、8百トンが挙げられ、かなりの規模の民間工場を設立できるほどの在庫量だった。また鋼材などの資材も豊富であり、これらは間もなく軍や県を通じて多くの民間企業や団体に、無償か超安値で払い下げられて復興の一翼を担った。ただし、純粋な民生向けの製品をつくる工場はとっくに機械ごと召し上げられていたため、譲渡先のほとんどが、それまでの軍需関連産業であった。 専門知識を持つ技術将校や技術職員が再就職できたのに対して、製造現場しか知らない一般従業員の中には生活のメドがつかない者も多く、不公平感が残った。残余財産を収奪する不心得が横行し、大河原署員やMPがパトロールを行った。11月21日夜には、アルコールを盗みに侵入した男達と警備陣の乱闘が起き、MPの機関銃で犯人グループ3人が死亡し、52人が逮捕された。グループの中心は、戦時中連行されて戦後は放置されていた朝鮮人だった。 廠内には火薬438tと爆薬582tが貯蔵されており、グレン中佐の米軍本隊が進駐した翌日から構内で焼却が始まった。火の回りが早い火薬は順調だったが、強い衝撃を要する爆薬ははかどらない。米軍は火薬庫ごと爆破したいと言い出し、同廠幹部は危険を指摘したが、結局司令部の方針として強行された。堅固な半地下式爆薬庫のTNT爆薬56tを建物ごと一気に処分しようとした。廠側の忠告で、周辺住民を全員白石川対岸に避難させた上で行ったが、破片は2km近くも飛び、北郷村神次郎地区で電報配達中の男性の頭を直撃して死亡させたほか、役場、学校かなりの民家の窓ガラスを割った。 7 仙南最大の総合病院 15年7月半ばに、船岡海軍共済組合病院が構内の一角に誕生した。100人を超す職員と最新設備をもち仙南最大の総合病院といわれた。一般にも開放したため住民の喜びも大きかった。 柴田町の大泉二郎さん(74)(船岡町議、柴田町議を連続7期)は同廠総務部から志願して18年7月に病院職員に転じた。戦局悪化に伴い、入院患者の食料確保のため、構内の空き地を耕してイモや野菜類を植えた。空襲に備え20床の地下病院もつくった。軽症患者を医師看護婦付きで青根温泉に疎開させ、それでも足りず小原温泉に病院ごと移す準備のさ中、敗戦を迎えた。 敗戦後も船岡共済病院として、患者のため自主営業を続けた。患者のため環境整備に力を入れていたことから、住み心地よさそうな施設が米軍に接収でもされたら患者はどうなるかと思い、大泉さんは、乗り込んで見て回ろうとする米兵を押しとどめ、消毒剤を振りまいて、伝染病患者がいるからといって退散させたという。 病院は仙台の施設を空襲で失った国鉄に職員ごと62万人で身売りし、20年11月から仙台鉄道病院となる。仙台の鉄道病院が再建された23年11月には船岡分院となり、26年6月には結核専門の単科施設となり船岡鉄道病院と改称された。結核患者減少に伴い、41年3月31日を限りに仙台鉄道病院に統合され、船岡の医療活動は幕を閉じた。 8 従業員のその後 火薬廠の総務部長だった塚本寿雄さん(84)が敗戦でまっ先に考えたのは、1万人を越える従業員の再就職問題だ。一時占領軍管理下におかれてもいずれ何らかの工場として活用されるだろう、その工場に従業員たちの採用を頼む際に活用するため、従業員名簿が必要だ。塚本さんは、平塚時代から工夫を重ねて、個人別カードと50音順名簿をつくっていた。そのため、残務整理にあたった総務部の部下に保存を頼んでおいたのだが、残務整理が終わって引渡を求めると、うっかり焼却したと返答された。ところが、ウソが発覚する。32年に起きた旅役者が船岡の小学校庭で他殺体で見つかった事件で、町内に住むこの元部下が塚本さんに刑事を案内してやって来た。火薬廠時代にも多くの芸能人が慰安に訪れたことから、被害者も顔を出したのではないかということで尋ねて来たのだが、元部下が引き揚げた後で刑事が元部下宅で従業員名簿を見せてもらったことを話した。塚本さんは直ちに元部下を訪ね名簿の引渡しを求め、何とか借り出して4か月がかりで写した。 数年前に、大泉さん(前出)は、火薬廠勤務時代の友人の遺族から、故人の遺志として山ほどの書類を託された。なんとその中には、塚本さんが苦労してつくった名簿類が含まれていた。その後2つの原本は厚生省援護局に渡り、厚生年金を戦前の分まで受給する際の証明資料として活用された。 (次回その3に続きます。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.10.16 16:40:19
コメント(0) | コメントを書く
[宮城] カテゴリの最新記事
|
|