カテゴリ:宮城
江戸時代、馬に乗った武士などが城や寺社に入るとき、馬から下りなければならない場所が決められていて、そこを「下馬」といった。主人は中に入るが供回りの者たちは、下馬で主人の帰りを待つのが定めだった。暇を持て余した供の者たちは、世間の噂話や他人の批評などをして時間を潰すしかない。単なる時間つぶしなので、噂の真偽などお構いなしにあることないことを話題にした。そんなところから、第三者による無責任な噂話や興味本位の批評・評価を「下馬評」と呼ぶようになった。
■三上文明著(野口元大監修)『みんなの語源 知って得する!日常語の由来184』山海堂、2007年 さて、多賀城市に「下馬」がある。仙石線の駅名だし、古く明治時代には村の名前だった。 『多賀城町誌』(佐々久監修、多賀城町誌編纂委員会編纂、昭和42年)によると(p.397)、次のように説明されている。 ------------ 下馬は、多賀城、塩釜(ママ)市と境を接している。塩釜神社に参詣する者はここで下馬して塩釜膳部に入ったので、この名ができたと言われる。神社までの距離が長すぎるし、其の外下馬する必要のある対象もなく、疑問の点が多い。佐々久氏は下馬はもともと急な坂であったから、下馬せねば通れなかったのでこの名ができたのであろうといっている。 一体塩釜と仙台方面との通路は大体二通りあって、一本の道は奏社宮(odazuma注1)-大日向の線と、もう一本は八幡-留ヶ谷-安部の待橋(odazuma注2)-向山(odazuma注3)と通って、今の坂病院の後に出て病院の北側を通って、膳部に出て塩釜に入り南町を抜けて神社という道もあった。 膳部で下馬し、あそこから歩いて神社に向かったものだろう。そうすると、この八幡を通る通路は神社に向かう本道ということになるだろう。本道だから下馬があって、奏社宮は脇道にすぎなかったのでこのような禁制区域があってもよい様に思われる。神社から見れば八幡街道は正面であって、南方に位しているので、この道を本道としたのもうなずけると思う。随って、神社への正使は勿論この八幡街道をとったと思われる。前述と相反する考え方であるが、参考のために書いておく。 ------------ 注1:奏社宮 陸奥総社宮。多賀城市サイトの説明参照。 注2:安部の待橋 おもわくの橋の別名。多賀城市サイトの説明には、阿倍松橋と呼ばれていたとある。 注3:向山 伝上山2丁目に「向山集会所」や「向山公園」があり、また行政区名「向山」として名が残る。 従兄弟が東京から一時多賀城に住み着いたとき、シモウマと読むのではないのか、と言っていた。こちらはゲバなのです。 なお、町誌の説明に出てくる「膳部」だが、塩竈市ホームページ「塩竈の水道の歴史」の中に、「膳部清水」として出ているのが関係するのだろう。地点としては、それこそ坂病院の北のあたりなのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.08.15 06:26:09
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