カテゴリ:東北
河北新報2023年4月3日(ワイド東北)で、東北大学災害科学国際研究所の川内淳史准教授(東北近現代史)に聞いたという記事。東北の侮蔑後とされた「白河以北一山百文」は、最近の研究によって意味合いが時代によって少しづつ変化してきた過程が明らかになってきたという。
概要は以下だ。 (記事の文中には、川内氏の見解(持論)などと随所に断りがあるが、以下では省いた。なお、記事の署名はコンテンツセンター小沢一成さん。) 1.近事評論の寓話 文献に初めて登場したのは、雑誌「近事評論」の明治11年(1878)8月23日第148号。福沢諭吉の門弟だった旧熊本藩士で自由民権運動に共鳴した林正明が書いたとされる。 記事は、西南(薩長)の地図の上に並べた人形は飛ぶように売れるのに、白河以北に並べた人形は誰も顧みようとしないという寓話。時代が変われば売れるようになると慰められた人形売りが泣き止み、白河以北一山百文と叫んだという内容。。 2年後の同誌第277号は、東北人士を人形になぞらえ、薩長藩閥政府の下で西南優位の状況を覆絵層としない無気力を批判し奮起を促す狙いだったと記述している。 2.天恵薄き地 意味合いが変わったのは20世紀に入った頃。明治三陸大津波(1896年)や大飢饉(1905年)などで、東北=「天恵薄き地」という認識が広まった。これを理由に東北振興の機運が高まっていく。東北人を発奮させるためだった「白河以北一山百文」が、天恵薄き地の認識が広まる中で、東北全体を指す言葉に意味がずれていった。 3.薩長発信との認識 昭和に入ると薩長新政府が東北に投げかけた「罵倒語」との認識が登場し始める。1930年出版の「総合ヂャーナリズム講座Ⅲ」に、「一山百文とは明治維新の変革に政権を握った薩長が、東北を侮蔑した呼称で(中略)あざける意味が含まれていた」との記事。 昭和三陸津波(1933年)や昭和東北大凶作(1930-34年)に見舞われ、さらに戦時体制の強まる中で、同じ日本にも関わらず差別的扱いを受けたとして国家を造った薩長に不満が向けられて、「白河以北一山百文」に結びついたのではないか。 4.司馬遼太郎の推理と影響 一方で、戊辰戦争で薩長の司令官が攻め込んだ際に「白河以北一山百文」と言ったという俗説がある。司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」が一番古い記述とみられる。 1972年の連載を収録した「街道をゆく三」の冒頭部分に「『白河以北、一山百文』といったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻め落とした長州軍の士官の一人であったであろう」とある。司馬一流の推理とみられるが、意味がずれていく中で生まれたものと推量される。司馬の影響で、以降こうした認識が広まった。 ■関連する過去の記事 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.07.01 17:23:47
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