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亘理町逢隈蕨の十二支地名(方角地名)について書いた(十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日))が、耕地整理の際に命名したのではないかと推察した。じつは、昨年参加させて頂いた地名研究会で、耕地整理で字名変更が行われた大崎市の「戦中地名」についての研究報告があったことを思い出したからだった。 以下、大崎市の「戦中地名」について。下記文献から当ジャーナル整理。 (■鈴木進、鴇田勝彦「大崎市古川大崎を歩く」 宮城県地名研究会『地名』第58号 所収) 1 地域の概要 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。 ・明治8年 大崎村←名生村+伏見村 ・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村 ・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢) ・昭和25年 古川市大崎 ・平成18年 大崎市古川大崎 (↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。) 名生舘(みょうたて)、名生北舘などの字名が残るが、名生館(名生城)は南北朝時代から戦国時代の城で、江合川西岸の段丘の上に築かれた。大崎5郡を領地とした大崎氏の城で1351年に斯波(大崎)家兼が築城したといわれる。 〔当ジャーナル注釈〕合併と広域地名の関係論(下記参照)でいうと、大崎氏が居城し、また陸羽東線を挟んで大崎神社もあり、明治初年に大崎村を名乗ったのは、その資格十分ありということだろうか。 (参照 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日)) 2 耕地整理と戦中地名 東大崎村では昭和17年の耕地整理で大幅な字変更が行われた。ここで下記のような戦中地名が集中的に生まれた。 ・(古川大崎)朝日、共和、更生、新興、信念、交合、銃初稔、自力、神力、先制、善勝、総力、東亜、日の丸、奉公、富国、報国、躍進 ・(古川清水)精農、新成 ・(古川新田)朝日、共栄、興和、銃後稔、十陸稔、末広、世紀、宝稔 朝日と共栄を除くと、多くが全国的にみても東大崎村特有の地名である。 これらはあくまで耕地名であり、宅地の字(囲)名はそのまま残った。例えば、「古川大崎字自立」の小字の中の宅地に「古川大崎字伏見新田」が地図で見ると海に浮かぶ小島のように残存する。明治以来、当地域は「名生○○」「伏見○○」という40ほどの字名だったが、耕地整理で戦中地名を含む新字が付けられ、水田などの地域の大部分はこの新しい小字に変わったが、ただし、宅地部分だけは明治以来の字名が残ったという構図である。 3 具体例 ・「報国」 昭和17年に名生西川原と名生新田に生まれた耕地名 ・「銃初稔」(じゅうはつねん) 昭和18年の意味で、「銃」を使った戦中地名。名生中川原のうち渋井川と陸羽東線に挟まれた水田。 ・名生上代(わだい)では、「昭和」、瑞祥地名の「弥栄」なども生まれた。 ・名生六角は、安永風土記にある「六角辻」が語源とみられるが、渋井川を挟んで西に「六角」、東に「共和」の新字名を付けた。前者は「古川大崎字六角」であり、「古川大崎字共和」に囲まれて残る「古川大崎字名生六角」とは別である。 ・「富国」は伏見樋下の一部、伏見津花立、伏見八反田の新しい耕地名。「善勝」は伏見樋下の8割方についた新字名。なお、平成期の耕地整理で、「善勝」と「富国」の西3分の1が新たに「新善勝」となり、また、「富国」の東3分の2と周囲(更生、東亜、巴、十陸稔、世紀など)は東大崎最大の水田面積を持つ新しい字「富国」となった。宮城県古川農業試験場、農業大学校もここにある。 4 なぜ付けたか 15年戦争、なかんずく太平洋戦争時には国民は総動員体制のもと、農村は食糧増産のための耕地整理が緊急の課題だった。これと戦意高揚が結びついて、特にこの東大崎村で戦中地名が集中的に生まれた。誰がイニシアティブをとったか分らないが、村民の支持をかなり得たと思われる。 5 補足(当ジャーナル) この研究報告では、現地調査によって「屋号」が多く確認され、伝承、氾濫などにまつわる由来などが非常に興味深かった。鈴木さん鴇田さんの調査に心から敬意を表します。 ■関連する過去の記事 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.20 13:31:45
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