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プロレスリング・ノアの三沢光晴社長逝去の悲しみが冷めないうちに、大阪プロレスのレフェリー、テッド・タナベさん逝去のニュースが流れてきました。
もう20年近く前“インディペンデント”とよばれる独立系のプロレス団体ができ始めていたころ、私はその一つの「ユニバーサルレスリング連盟」の興行によく足を運んでいました。 京都市内某所で学生生活をしていた私は、授業が終わるとチケットを握り締めて阪急電車に飛び乗り、大阪府立体育会館第二競技場や高石市にある大阪府立臨海スポーツセンターで開かれていたプロレスの興行によく足を運んでいました。メジャー、インディー団体問わず月1ペースで観戦していましたね。バイト代をつぎ込んでいました。 メキシコから一流のレスラー(ルチャドール)を招へいし、日本にルチャリブレを紹介していたのが同団体。テッドさんが裁いていた試合も何度となく観戦しました。メキシコ人レスラーの空中殺法や複雑な関節技に感嘆したものでした。 当時は全日本プロレスのリングでは故三沢光晴さん率いる“超世代軍”が一番強かったころの故ジャンボ鶴田さんに立ち向かっていたころでした。大学の構内で仲間と鶴田さんのパフォーマンス“オーッ”(右こぶしを突き上げる)をやってよく騒いだものでした。 当時リングに上がっていた人たちの訃報に接するたび“まだ若かったあのころ”を思い出します。少し前のブログ記事で“宝物”をテーマにしましたが、忘れられない思い出の中の重要な登場人物が去っていくような気がします。 心から哀悼の意を表するとともに、今後「もっとプロレスを会場で生観戦しよう」という気持ちが強くなりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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