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カテゴリ:人生
人に優しくすることは非常に難しいオニオンではある。。。
というのが前回で、続いて二つ目は「言葉」を磨くことである。 「ことだま」ということばはもう死語かもしれないが、もう一回よみがえらせてはど うだろうか。 漢字などの書き言葉は他所から来たとしても、話し言葉は日本のものである。 その日本の魂を磨いて美しい日本語をしゃべってはいかがだろうか。 最近なぜ、日本語が乱れているのか?それはそれを教わっていないからである。教え ないからである。 優しくすることも教わらずしては不可能である。 資格ある教師が必要なのだ。敗戦後何とか日本は生き残ったとはいうものの、精神面 の教育がなされていない。それまでのものが殆ど姿を消されたのである。天皇主義を 恐れてのことかもしれない。よって、「ことだま」と口に出そうものなら、すぐに指 を指されてしまうからだろうか。 しかし「ことだま」教育=天皇主義とするのは、あまりにも単純である。 言葉の心をスピリット、つまり魂を習うべきである。 敬語が使えないのではなくて、使い方を知らないのである。だから教育すべきなの だ。敬語の分類を変えてみたところで、何にもならない。そういう表の目に見えるこ とでなく、内部の隠れた部分の改革をすべきなのだ。これは過激でも何でもない。 オニオンは哲学者でも、宗教家でもないし、教育家でもない。しかし、ひとりの外地に住む日本人として、声を大にして言う、「言霊」教育を見直せと。 それを後世に受け継いでいかないと、いつか日本の心は完全に消滅してしまう。 幸いにして、戦後日本の漢字などの文字は残された。とはいうものの随分骨抜きにさ れたものもあるが、その文字に心を持たせてやらないとならないのではないか。 心はふわふわしているからこそ、落ち着くところがいるのだ。有形の文字には心がな いともろくなる。 ふたりの俳優が同じせりふをしゃべっても、人に感動を与える場合とまったくそうで ない場合とがある。それはことばの裏に心を入れるからだ。 また、機械で切った肉には味が無い。ところが、ベテランの肉屋が切った肉は旨いの である。更に、高い料金のレストランでまずさに失望することがあるが、あばらやで 出された心づくしの料理に感動することがある。 人間はこの感動することが大切である。出来ない場合にはもうオシマイなのである。 ということで次回にオニオンの結論を出すことにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月21日 00時35分05秒
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