|
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日オランダ語を再開した理由なんかを説明しようと、過去のことに触れましたが、
これってとってもプライベートなことなのですね。 書いていて気が付きました。。。それで少し端折って続けます。 オランダ語を習うが一心で毎朝子供を預けて、学校に通いました。毎朝レッスンでは なかったのですが、復習で毎日一杯でした。そしてオニオンは、ある決意をしてこの レッスンに望んだのです。それは、子供は小さいし、これからいろいろな伝染病や病 気を託児所からもらってくるだろう。それ自体はどうってことないが、水疱瘡以外は 二日ほどでよくなるし、高熱さえでなけりゃ託児所で預かってくれるだろう。という 希望的観測、つまりマイナス思考は一切排除していました。万が一、高熱がばれてむ こうで拒否されたら、おぶってでも学校へ行く。特に試験の時はそういう心がけで臨 むのだ、でした。最初から相当の気合が入っていたのでしょう。初級の一年間全然高 熱で負ぶって出かけることはありませんでした。風邪にもかかりませんでした。母子 ともに健康そのものでした。言ってみれば、水疱瘡にかかりましたが、体のカサが自 然に落ちるまで預かってくれないということで、オニオンはタオルでハタハタたたい てそのカサを落として託児所へ連れて行きました。 その間幸せでした。自分のやりたいことが出来る幸せです。子供を犠牲にするのでな く、協力してもらうのです。 実はそのあたりからパートタイムの仕事を始めました。それは午後からで、朝勉強し てからです。最初の一年間はうまく事が運んだのです。ところが、二年目、中級に上 がった時ですが、参加者が定員をわっているのでせっかく始めたクラスが途中で廃止 されるという危機が到来しました。これからが、会話やヒアリングを本格的に勉強出 来るのにぃ。。という微妙なタイミングでした。学校としては午後や夜のクラスへ編 入する便宜をはかってくれるようだったのですが、仕事と小さい子供がいるので没に なりました。 それからというもの、この大ショックから立ち直れませんでした。やる気満々が行き 場の無い蒸気のようにもれて爆発しそうでした。 そうして、10年近く、どうにか子供の手が離れるまで、その圧力は少しずつ緩んでき ました。 その間に、仕事を休止して日本へ2ヶ月ほど戻りましたが、イラク戦争が始まってし まい、訳が分からないまま(ベルギーに)帰国です。同じ仕事をする気になれず、失 業者待遇を受けながら、英語のクラスへは通ったのですが、ショックをうけたオラン ダ語へは戻りませんでした。やっとまともな仕事が見つかったころには、フランス語 と英語と日本語の仕事ですが、オランダ語は横目で見るという具合でした。でも少し は出来るというので得はしました。 長くなったのでまた明日です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年08月29日 18時48分32秒
コメント(0) | コメントを書く |
|