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カテゴリ:人生
学校でセオリーを習って試験があって卒業証書をもらい、就職、結婚、離婚、失業、再就職、再婚、病気、引退、年金、そして病院。 習ったセオリー(机の上の学問)を実生活に使うことなく、一生を終える場合が多いのではないでしょうか。。せっかく受験に時間と健康を使い、入学して卒業したのに、会社へ入ると型にはまった考え方で(オートメーション)(チャップリンのモダンタイムズを思い出してくださいね)、結婚、家庭を持ち、そのまま年とっていくなんて。。 それはそれなりに励んでいるのだから、という人はそれでいいのです。でも何か違う、これじゃないんだ、と感じる人は、今一度リセットが必要です。 我々は生まれながらにして天才というか、何もセオリーを習わなくても頭の切れる人がおります。それは横に置いておいて、もしあなたがそうだったらこのブログは読んでいないでしょうから、今まで習ったことが身についているか自問自答してください。 そもそも学問とは、学んで糖でなく、学んだら問いかけるモノです。 昔オニオンはほんの一時商店を任せられていたのですが、マーケティングの勉強をした女の子を雇いました。彼女にショ―ウィンドーをするように言いましたが、彼女は「教わっていません。」という返事が返ってきました。 オニオンは開いた口がふさがりませんでした。習っていない、教わっていない、なんてそう軽々しく口に出すなよ。と言いたかった。。でも誇らしげに「知りません」と言う哀れな人間を前にして、何も言うことが出来ませんでした知ったかぶりも困るけど、実際、その場で役に立たないとゴミ箱行きですから。。 気を取り直して、「学校で習ったんでしょうが、それを使わんかったら、あんさん何の為の学校やったんよ」と、マーケティングは言ってみれば、売るための戦略のようなものです。 どうせ親が金を出して、その学校へ行かせているのでしょう。家賃も払っていない、水道やガス代も親でしょう。自分でまだ生きていないのです。でもそれが彼女の内なる声だったのなら、それもいいのですが、仕事をする場合には制約があります。当然です。全く自由ではありません。しかしながら、学校で習ったことを実践に移すチャンスがあるのです。それをのうのうと「知りません」で済まされるかっこの**。。ぐっと抑えて彼女を励まして何とかディスプレーを作らせたオニオン。。 前置きが長くなりましたが、凡人は励まなければ意味が無いのです。 棒高跳びでは、助走と飛躍が必要です。何度も何度もやって、コツをつかみ、自分の決めたリミットを越える。この時こそ、あなたが次のステップへ進む鍵なのです。 「求めよ、さらば与えられん」というのは、何もしなくてもいいのでなくて、あらゆる手を考えて実践に移し、何度も何度もやってみて、それが尽きたところで与えられるというものなのです。 これにあきらめは禁物です。仏教の「諦め」はまた別の意味がありますが。。 あきらめない週末をお過ごしあれれれ。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年02月24日 18時09分08秒
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