おいしい 千葉 ~ponの食べある記~

2009/03/30(月)04:54

DNAの底からやってくる味(2)

☆星の彼方のレストラン(20)

新婚用にと、親子3人で私の家の中を片づけている最中だった。となりの部屋で何か大きな音がした。母がさけんでいる。見ると、戸棚のよこに父がうつぶせで倒れていた。声をかけるが、返事がない。息はしている。(どうしよう)(いや、下手に動かさないほうがいい)すぐに救急車を呼んだ。 脳内出血ということだった。手術のあと、3日くらい昏睡状態がつづいた。目があいたとき、危険な峠は越えていた。そのあとあちこちの病院をまわって、リハビリに精をだした。しかし、思わしい回復は見られなかった。右半身の自由とことばを失った。私の奥方は、結局父の料理を一度しか味わうことができなかったことになる。右足に補装具をつけても、1センチの段差に対応できない。自宅にこもれば寝たきりになるのは目に見えていた。 今現在、私の家から車で数時間はなれた病院ですごしている。定期的に顔を見せるようにしている。今では、自分の奥さんよりも私のほうを頼りにしているようだ。顔はきちんと見分けがつく。子どもを連れていくと、思わず顔をほころばせてくれる。 病院の中ばかりだと、気分が煮詰まってしまうだろう。たまに許可をとって、外に連れだすときがある。とっておきの場所を見つけてあった。 小高い丘の上で、そこから町全体を見下ろすことができた。車椅子をひろげて、ドア口に置いておく。補装具をつける。両足を外向きにもっていく。そうしてから、体を完全にこちら向きにセットする。しかし、どう体勢を整えても車の中柱が邪魔をしてくる。トヨタの「アイシス」のような中柱の無い車でないかぎり、これは解決しないだろう。両足首をもって、とにかくそこをかわす。パジャマのズボンの尻の上を大きくつかみ、抱きかかえるようにして一気に持ちあげた。自分の右足を使って車椅子をこちらに引き寄せる。とにかく座らせてしまえば何とかなる。 町が見えるほうに向けて、ベンチの横に固定した。買ってきた弁当をひろげる。幕の内で俵型になっているご飯をさらに小分けにして、口もとに持っていく。モグモグとゆっくり食べすすむ。大丈夫、食欲はおとろえてない。 これ以上ないような晴天で、町のすみずみまで見通せる。ゆるい丘陵が右手に広がり、その先の果ては淡く霞んでいる。 (いい天気だね) (……) (きょうはものすごく気持ちいいね) (……) たいした言葉をなげかける訳でもない。返答がなくても、それで十分だ。このごろは何となく、意図するところが分かるようになってきていた。 こうやって病院を抜け、父と二人ですごすのが今の私にとって最高に至福のときだといったら、人は変に思うのだろうか。しかしこれは、本当の気持ちなのだった。父に対して、頑なさばかりを前面に打ち立ててきた私。ほとんど恋人に接するかような熱心さで私に奉仕してきた父。その主従はいまや逆転し、やっと自分が返礼できるようになっている。それに対する、かすかな充足感とでも言ったらいいのか。 私はいつも、何らかの頑なさを盾にしてやってきた。私は、人生のほとんどすべての時間を費やしながら、その頑なさを何とか柔和方向に向けているのではないか、そんな気がするときがある。私はいつも、何らかの欠落を抱えてやってきた。私の行動律は、常にその欠落を埋めるために起こしているともいえた。 愚かにもほどがある。人が人生の入口で見つけるべき「自分の人生の解答キー」を、私はほとんど終了間際で、やっと見つけようとしているのだ。いや、まだちゃんと見つけてない。それとも、それが分かりかけているだけ、まだマシと思うべきなのか。 私は立ちあがって、心に浮かぶ適当なフレーズを口ずさんでみる。    *     *     * この 晴れやかな午後に すべての悩みやこだわりは失せ ただ 自分の内の 正直な気持ちとだけ 対峙する この 晴れやかな午後に すべてのにごりやくすみは飛び ただ あなたの内の 私への想いとだけ 通理する 胸に去来するのは 一片の甘やかなうた 瞳に宿生するのは たぶん 穏やかな夢 花影のもとでまどろむ 清涼な愉悦を あなたにこそ 伝えたい この 晴れやかな午後に すべての反応や誘導は去り ただ 二人に課された インスピレーションのみで 対話する    *     *     * この先どんなに食べ歩きをしようと、ある意味その結果はすでに見えている。どんなにおいしい店でおいしい物を食べても、たぶん私を十全なる満足に導くことはできないであろう。それこそDNAの底の段階から、私の嗜好を知りつくした強大なる巨匠が控えているのだから。味の指標のルーツは、すべてその中にある。あの味にかなう味はない。 そして、これも今だったら何のわだかまりもなく言えるだろう。 「親父。親父さん。だれが何といおうと、私の最高の5つ星はあなただ。料理の味だけでなく、他のすべての面も含めて、あなたは私の5つ星だ。ありがとう、本当にありがとう。どれだけ感謝しても、足りないだろうけれど」 ここまで記してきて、今無性に、父がつくった餃子と焼売と厚焼玉子が食べたくなってしまった。ただこればかりは、もうどうすることもできない…。

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