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カテゴリ:名所・旧跡
1/3(水)地元兵庫県での帰省を終えて横浜の自宅へ帰る途中、
浜松で下車して寄り道。 徳川家康が武田信玄に大敗を喫した、 三方原古戦場と浜松城へ行って来た。 浜松駅からバスに乗り 浜松城から徳川家康が出撃したルートを辿って、 約30分で三方原古戦場へ。 ![]() ![]() 浜松の市街地から坂を登った、 三方原台地と呼ばれる平らな台地に広がる古戦場。 浜松城の徳川勢を無視して、 三方原台地を浜名湖の北方へ向かって進軍する武田勢を、 台地の北端に追い詰めて撃退しようと出陣して来た徳川勢が、 逆に台地の上で待ち構えていた武田の大軍に迎撃され、 まさにボコボコなされた「三方原の戦い」の現場だ。 現在は平らな台地に浜松市の墓園が広がっていて、 墓園の片隅に古戦場の石碑と看板があるだけで、 古戦場の面影を感じるものは残っていない。 浜松城からここまで出て来て、 背を向けているはずの武田勢が、 魚鱗の陣形で待ち構えていた時はどんな景色だったのだろうか。 武田勢の魚鱗の陣形に対し、 徳川勢は急遽、鶴翼の陣形を敷いて迎え撃ったが、 呆気なく布陣を破られて大敗し、 一斉に浜松城へ向かって敗走した。 帰りは再びバスで浜松城まで、 徳川家康が敗走した道を辿る。 浜松城に到着。 ![]() 敗走した、若き日の徳川家康像が建っている。 ![]() 室町時代、浜松付近は曳馬と呼ばれ、 駿河今川氏傘下の飯尾氏が築いた曳馬城があったが、 1570年に徳川家康が遠江を領有してから、 浜松と改称し新たに浜松城を築いたのが城のルーツ。 1590年に城主となった、 豊臣家譜代の堀尾吉晴によって天守が建てられたが、 1600年代に姿を消してしまい、 長く天守台の石垣が残るだけだった。 ![]() 現在建っているのは、 1958年(昭和33年)に建てられた、 鉄筋コンクリート造3階建ての復興模擬天守で、 中は資料館として公開されている。 天守最上階から戦場となった三方原方面を望む ![]() 徳川家康は29歳から45歳までを浜松城を居城として過ごし、 武田信玄にボコボコにされた「三方原の戦い」があったのは31歳の時の事。 家康にとっては、 桶狭間の戦い後の大高城から岡崎城への敗走、 本能寺の変の後の伊賀越えからの脱出行と並び、 人生の中での大ピンチだった三方原からの敗走。 その後の家康の出世や、 歴代城主が幕府の要職に就いた事から、 「出世城」と呼ばれるようななった浜松城だが、 その出世も大敗から多くの学びを得た、 徳川家康の成長あってのものだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.03 15:09:45
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