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カテゴリ:仏教、神話、哲学
「時」が客観的に流れていないなら「死」をどう考えれば良いだろうか?
「時」は主観的な次元に流れている。 「時」は仮の存在を作り出す。 「時」を認識する肉体が滅んだのなら、時の流れに依って成立した「自我」も滅びることになるだろう。 主観に依って成立した世界の全てが滅ぶはずだ。しかし現実の世界は滅びていない。「何か」別に主観を領有している存在がある。 肝心なのは「そもそも備わっていたもの」は死の時点では滅びないということだ。 ちなみに肉体の方は既に滅んでいますので、「そもそも備わっていた」DNA等は滅びたという前提です。ただし質量保存の法則で、物質そのものは消滅しません。 そして世界全体も人が死んだからと言って、消滅する訳ではありません。 だから、唯識で謂う「一人一宇宙」は間違いということになります。 「人間原理」を応用すれば、もっと深淵なる存在が宇宙を認識している。 それが人間の魂なのか、神なのかは分かりません。 しかしそれらは人間や動植物の知覚を通して、宇宙を覗き見ているような気がします。 何故なら、「それ」が主観の根源だからです。 「時」は主観に流れています。 肉体が滅びても「時」は流れています。 じゃあ、それを眺めている「主観」の「主」って誰? 大乗仏教なら〈仏性〉ですね。 少なくとも時は我々一人一人の心を繋いで、一つの法界を成立させています。 個人が成長の内に手に入れたものは全て消え去ってゆくものです。しかし時を共有し法界を共有しています。その「時」や「法界」を見ている心の正体が気になります。(大円鏡智) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月01日 21時42分12秒
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