カテゴリ:短歌
話題の歌集から、私の注目した歌にコメント。 生存の悲哀のごとく感情の底に荒々しき穏やかな感じの作者だが、心の底には誰にも――そして自分自身にもほとんど――見られることのない ガリガリと引っ掻いたような激しい感情の爪痕があるのだろうか。いや、なんら人為の加わっていない野性的な感情が動いた痕跡は、誰の心の底にもあるのだろう。 以下の三井ゆきの三首は、夫を失った日々のありさま。 立春をすぎて雨水のそらもやう 尼にもならずわれ在りにけりたぶん茫然自失として暮らしてきたのだろう。尼にもならず中途半端にここに所在無く存在しているという感じだろう。 死者生者はげしく思ふはひとりづつ一口食みては独りの夕餉今は亡き夫と一緒に語り合いながら相互に一口ずつ食べているような感じなのだろうが、ふと振り返ると一人の夕餉。 喉元を涼しく通る秋の水 身ひとつとふはさらに涼しき春は春で皆の活動についていけずに悲しいが、こちらは、秋になって涼しさに寂しさや悲しさを感じている歌。 次は小高賢の歌。 二十七歳の娘のメール丁寧なことばは秋澄むようなさびしさ綺麗すぎるとよそよそしくて淋しくなる。父親にとって、娘が離れていってしまうかのよう。 正念場なれどもしかしこれからは踏みごたえなき沼かもしれぬ叩かれても叩かれても足を踏ん張って……というのがこの作者の正念場のイメージだったのだろうが、これからは踏ん張れる足場がない所で必死に苦しみに耐えるしかないのかも……という感じか。 以下の永田紅の作品は、学生(学部)時代から院生になった時代の歌。 卒業は遠ざかること プレパラートに気持ちとしては、二人でデート。 植物の名前をいくらおしえてもおぼえなかった君離れゆく植物の名前を覚えられない男子も多い。(・_・)ノ ワタシモ でも、覚えてくれないからこそ何度でも話しかけることができた。離れてゆくのは二人が仲違いしたからではない。運命の力のようにも思える。 十年前私は碁盤の目の中にありてまだ悲しくはなかりき中学生、高校生、大学(学部)生で10年間になるが、この当時は学籍簿の中に入っている自分をなんとも思わなかったが、いま、学籍簿(?)の中から出て行けない自分が、ひとり取り残されているようで悲しい、ということだろう。 《『NHK短歌』のホームページ》 人気blogランキング ↑この記事が面白かった方、またはこのブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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