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さて、またもや場面は変わり、冒頭の画像は広島県安芸高田市向原町の「大土山(おおづつやま)」の山上にある「天岩座(あまのいわくら)」(前面の鳥居奥に座する大磐座)を撮影したものである。そして下の画像は、冒頭画像に映る御神体たる大磐座に近づき、その正面から全体を撮影したものだ。 実はこの度の「弥山」への登山の前日に、おそらく今回で五回目となる「大土山」の大磐座を訪ねていた。 山上とはいえ、なだらかな丘陵地に息づくこの磐座は、高さが約4mで周囲は約30mもあり、古代祭祀場としての佇まいを含めて、その威風堂々とした貫禄には訪れるたびに圧倒され、また大いに癒されている。 興味深いことに、この「天岩座」という磐座を中心とする「大土山」の周辺には、この連載で取り上げてきた「イチキシマヒメ」や「安芸の宮島」と結びつく伝承があることだ。 その伝承を知ることになったのは、この「天岩座」を初めて訪れた際、たまたま当地の管理団体に所属する御方との出会いがあり、意気投合して会話も弾んだからであろう、以下に紹介する二冊の本を進呈される運びとなったのであった。 ※書籍「 真説 日本の始まり 」栗原 基 著作・講談社/初版1969年 ※冊子「大土山 天の岩座 顕彰趣意書」奉賛会発行(1982年) この書籍には、画像に映る「天岩座」をはじめとして、当地を含む「安芸国(広島県西部)」の隠された歴史等が著されており、特に印象に残ったのは「イチキシマヒメ」の行方であった。 (以下に関連事項を当書籍より抜粋・校正して掲載) ◎宇佐国で「神武天皇」(以降は「神武」と表記)に嫁いだ「イチキシマヒメ(ウサツヒメ)」は、”神武東征”に随伴し、安芸国の「多家神社」(埃宮)にて、「神武」との間に「御諸別命」を授かった。 ◎「イチキシマヒメ」の御子が二歳の頃、その御子が「大土山」で行方不明になったので、「イチキシマヒメ」はその行方を求めてさすらううちに、「宮島」の地に落ち着くことになった。 ◎それから間もなく「イチキシマヒメ」は病気で亡くなり「宮島」に葬られたが、その一年後に「神武」も亡くなったので、「イチキシマヒメ」と同じく「宮島」の「弥山」山上の磐座に葬られたという。 ※ある伝承には・・・九州から「神武」が攻めてきた。「神武」は即位するまでに、各地で6人が亡くなったが、7人目の「神武」は強かった。・・・とあったので、ここで「神武」という名称については、瀬戸内を含め各地を転戦した東征軍の、陣頭指揮を執る頭領が継承する”襲名”と認識してよさそうである。 次に上の画像は、先に紹介した奉賛会の冊子に掲載された写真を転載したものである。「天岩座」の御前での祈願中に撮影されたものであろう。以下、この写真に関する記述を載せておく。 ・・・ 祝詞奏上中に御神体を顕わし給い 岩座を守護し給うことを御教え給う。 ・・・ 吾霊視を許され、しばしの間絶句せり。 ・・・ 岩座を取り巻き給う御神体は 胴廻り四斗樽大にして 体長約90~100mと覚ゆ。 ・・・ 御龍眼および宝珠が光り輝き写真に現れり。 ・・・ 御神名 難蛇龍王大神 と尊称し奉る金龍様なり。 ・・・ 7月15日より7日間の特別祈願第三日目の 朝の祈願中に顕現し給いたり。 ( 昭和57年7月18日 午前11時30分 撮影 ) ※おそらく神主の頭上にある二つの斑点が「龍眼」であり、その左横の小さい斑点が「宝珠」であろう。 以上”「イチキシマヒメ」への思慕”と題し、「弥山」(1)→「御許山」(2)→「大土山」(3)という順序で、それぞれの山上にある「磐座」を繋ぐかのように、紀元前三世紀頃に活躍したと思われる「イチキシマヒメ(ウサツヒメ・セオリツヒメ)」の行方を辿ってきた。 もうお気付きの方もいると思うのだが、実は「御許山」ー「弥山」ー「大土山」と、西南から東北へと45度の方位線が形成されることから、次回はその”三点一直線”の方位線を基盤に、連関する他の要素も加味しつつ、この連載内容の全体像を論じてみよう。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年05月13日 22時05分52秒
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