祝・マツダ100年。
ボクごときが云うのも何だが、よくガンバッたものだ。
でも、海を奪われた者としては少し言わせてもらおう。
マツダの主力工場を造るのに広島湾の一部を埋め立て始めたのは、
ボクが小学校の高学年の頃。
南区の仁保から日宇那、楠那、そして丹那沖の海を埋めた。
猿猴川の河川口の仁保と下水ポンプ場のある丹那の港は残った。
しかし、ボクが生まれ育った日宇那と楠那は、
完全に海が無くなって水路だけになった。
漁業に携わっていた者は漁業補償をしこたまもらったが、
前の海を釣り場や遊び場にしていたボクたちには何も補償がなかった。
当たり前といえばそうかもしれないが、
オギャーと産まれて、海と供に育った者としては合点がいかなかった。
時代は変わって、東京での学生時代。
マツダ車は箱根の山をなかなか越えられなかった。
越えられなかったと云ってもエンジンの問題ではなく、
デザインと営業力の問題。
それが、初めて箱根の山を越えられたのは、
1967年にフルモデルチェンジしたファミリアだった。
渋谷・公園通り(パルコ通り)に駐車したファミリアを見つけて、
友人たちに、あれがマツダのファミリアだ、と自慢げに語ったが、
友人たちの反応は鈍かった。
それほどにマツダの車は東京・渋谷では見かけなかった。
時は移って、1980年代のファミリア・ハッチバック。
その後のマイナーチェンジの角ばったそれは、
完全にドイツのゴルフを真似たデザインだったが、
国産車ではかっこよかった。
かくいうボクも仕事の関係もあり、
黄色のFFファミリア・ハッチバックを10年(2台)乗った。
価格の割には車内も広く、よく走った。
(価格的には耐久性は5年位だった)
1980ー1981年のカー・オブ・ザ・イヤーを受賞して、
やっとマツダも全国区になった。
ボクとマツダの関わりはここまで。
その後、仕事の関係もなくなりトヨタ、スバルと乗り換えて、
ここ30数年間はスバルを乗っている。
そのスバルも2030年には、
シンボルである水平対向エンジンを廃止するという。
環境問題と安全性能でEVへの移行なのかわからないが、
これから10年先の車は大きく変わるのだろう。
果たしてマツダはついていけるのだろうか。
間違いなく、マツダが転ければ広島経済は沈む。
素人にはこの先、全く見通しが立たないが、
トヨタ系列としてなんとか生き残って欲しい。
では、お前さんもマツダにすればいいじゃないか、
と誰かさんに突っ込まれそうだが、大人の事情がいろいろあって・・・。