カテゴリ:真理論
ぼくらはことばにごまかされるのである。
「男と女」といったら、 もう当たり前のように対立する概念を思い浮かべてしまう。 男←→女 というようなイメージ。 しかしそれは、あくまでことばのうえでの空想なのだ。 真実では、ない。 捉え方は、自由だ。 便利な捉え方は真実よりも尊い。 ぼくが考えているのは「二重円」である。 ことばでいえば、「男は女に含まれる」。 つまり女という大きな円があって、 その中に男が入っているという構造。 母体という言葉があるように、 女がいて、そのうちの一部が男に変化した、 と考える。 そうするとことばのイメージは一変してしまう。 ほかにも、「ある」と「ない」をいかに捉えるか、 ということもあります。 ふつう、「ある」と「ない」は 反対語のように思われている。 でもそれは本当なのか。 「ない」は数字で言えば0、 「ある」は数字で言えば1である。 しかし0と1がほんとうに対立するのか? 「数える」のだったら、 0の次が1で、その次が2と続くわけで、 そうなると0も存在の一形態と捉えることはできないだろうか? 0を存在の一形態と捉えると、 たとえばことばのうえでも、 「あきらめるとは、あきらめないことである」 というのが矛盾ではなくなるのだ。 というか、もともと矛盾というものは 空想や妄想など、頭の中でしか存在しないシロモノだ。 「現実」には矛盾というものはない。 「あきらめることは、あきらめないことだ」 という文言が矛盾していると思う人の頭の中には、 「する」と「しない」は対立する概念だという思い込みがある。 しかし「現実」を見てみれば、 「しない」ということは「行動」の一つの選択肢であり、 実際は「しない」ということを「している」のである。 つまりこの世界には0(ゼロ)というものはないのだ。 わかりにくく言えば、 この世には、存在しないものは存在しないのだ。 すべてが、ある。 あるものだけが、ある。 ことばにまどわされるから、矛盾にとまどうのです。 ただの世界には、矛盾などないのです。 「あちらを立てればこちらが立たぬ」というのも なにかにとらわれているのです。 ほんとうはどっちも立つのです。 でも「これは変えられない」という何かに がっしりとしがみついているので、 「どちらか一方」という考えになる。 which―どちらか―という考えは、 かならずことばから起こる。 なぜなら、ことばのない世界はひとつだからだ。 名前のない世界は、それひとつなのである。 それひとつしかないので、存在という概念もない。 存在するとか、しないとかいうことすらないのです。 ぼくらはつねに名前で生きているのです。 便利だから名前をつけた。 だのにしばしばぼくらは、 言葉によって苦しむのである。 言葉は道具にすぎないのだから、 苦しくなったら捨てればいいのだ。 嗚呼、話の内容が表題とまったくズレてしまった。 まあよかろう。 とにかく「ことば」にとらわれるな、 ということなんです。 しかしことばがなければ生きていかれない。 ことばのない世界を知るにも、 ことばが必要になるのだ。 ことばも皮肉な運命を背負って生まれてきたものよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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