カテゴリ:真理論
仏教で戒めるべき状態のひとつに
「法我」というがあるそうです。 そのまえに「人我」というのもあって、 それは、自分の考えにとらわれることを言うそうです。 それで「法我」というのは、 たとえ正しい教えであっても、 それにとらわれることなのだそうです。 仏教は正しいか正しくないか以前に、 とらわれるかとらわれないかが問題なわけです。 これはドキッとしました。 まさしく僕は法我だったのではないかと。 最近、といってもまあ1ヶ月以上まえだと思いますが、 ある人に言われてすごくショックだったセリフがあって、 それは 「たしかにあなたは本をたくさん読んで 色んなことを知っているかもしれないけど、 知らない人を見下すのをやめて」 といった趣旨のことだったんです。 あまりに的確な指摘で、腹が立つやら悲しいやら まさにグウの音もでなかったです。 自分より他人のほうが見えていることは 多いのかもねと思った瞬間でした。 ほんとうに他人の指摘というのは的確なものです。 かなり傷つきます。 でも事実は事実なわけです。 たとえ僕が心の中で人を見下していようといまいと、 また見下している態度をとっていようといまいと、 相手がそう感じたらそれが相手にとっての真実なわけです。 まあたしかに色んなことを分かった気になってますからね。 だって「正しい教え」はそこら中に転がっているんです。 だから本をすこし読めば誰でも「知る」ことができます。 でも、それを口に出してはいけないということですね。 「言う」のではなく、「実行する」。 それから「正しい教え」を押し付けないこと。 「これが正しいのだ」は イコール「おまえは間違っているのだ」です。 正しい教えにとらわれると、 すべての人間を否定してしまいます。 完璧な人間などいないからです。 「とらわれない」 自由自在の境地に、いってみたいなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年11月01日 21時13分54秒
コメント(0) | コメントを書く
[真理論] カテゴリの最新記事
|
|