カテゴリ:真理論
メディアにはあまりにも
無思考無批判な「勧善懲悪」がはやっている。 勧善懲悪は、動物性であり幼児性である。 みずからを正義とし、 自分と異なるものを悪と見立て、 自分を正当化し、「悪」を破壊する権利があるかのようにふるまう。 実家に帰ったとき、テレビを見ていたら 結婚サギの話をやっていた。 もうそれこそ被害者の視点に立った番組作り。 500万円をかすめとった、 「サイテーサイアクな男」を 「被害者女性」とやとわれた探偵の気分になって 叩きのめしていく。そういう構成。 そういった構造に気がつかず、 ずぶずぶとだまされて見た人も多いだろう。 「こんな最悪な男がいるなんて」 「ひどすぎる!」 「人の気持ちを踏みにじって」などなど いつのまにやら正義の仮面をかぶらされ そして、おどらされる。 ちょっと待った。 あんた500万円ってすごい金額じゃん。 なんで途中で気がつかないんだ。 おそらく見えなかったのだ。 つまり目がくらんでいたのだ。 そのことを棚に上げ、 どうして「犯人」ばかりを責めることができるだろう? 「犯人」は法の上において、「犯人」なのだ。 世の中では「被害者」を守ることが「正義」であったり、 「よいこと」であったり、「美談」であったりする。 しかし、ほんとうは この世界には「被害者」も「加害者」もいない。 「被害者」とは「被害にあったと思っている人」 「加害者」とは「害をくわえたと思っている人」なのだ。 自分がやさしいと思っている人、 「自分はやさしいのだ」と思いたい人、 ほんとうは心の冷たい人ほど、 「かわいそう」という言葉を多用する。 「ごはんがなくてかわいそう」 「被害にあうなんてかわいそう」 「親がなくてかわいそう」 その意味は? 「自分はそうじゃなくてよかった」 それだけでしょう? けっきょく、「塀の外」の対応なんです。 しかしその自分の冷たい心を悟られたくないために やたら涙を流し、そして根治につながらない 自分勝手な対症療法で自己満足する。 「かわいそう」という幻想にだまされてはいけない。 「かわいそう」という幻想に、 だまされてはいけないのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月15日 23時40分26秒
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