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カテゴリ:国内旅行
佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進め
られた。寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。 この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人 が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名 行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。 永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新 田(現弥富町)を結ぶ新道の開通により、その役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれ ている。 2/20(木) 13:35 佐屋街道沿いに大きな常夜燈、右側の角に万場宿の高札場があった 光圓寺へ 真宗大谷派 光圓寺 所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目1003 山門の扁額「臥龍山」 山門からの本堂 山門を入り、鐘楼、三重塔、本堂 本堂の扁額「我聞如是」 鐘楼と三重塔、右奥に本堂が並ぶ 境内に蓮如上人御巡化の像 新しい三重塔 三重塔の扁額 境内からの山門 山門の木組み 光圓寺から佐屋街道を歩き覚王院へ戻る 13:43 国玉神社の拝殿 13:47 万場交差点、上の高架橋は名古屋高速5号万場線 万場交差点を通り抜け狭い道を進む 13:49 佐屋街道を進む 佐屋街道の高札場跡(大治町) 13:53 西條平ヶ野交差点 14:01 佐屋街道は県道68号線を進む 14:05 神守の一里塚 所在地:愛知県津島市神守町下町 神守の一里塚 江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして造られた。一里塚は、街道の両側に一里 (約4キロメートル)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にしたも のである。昔は北側の塚が東西7.3メートル南北6.7メートル、高さ1.5メートルの 小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5メートル、短径4メートル、高さ1.4メ ートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後ま で街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っ ているだけである 塚には灯籠が 県道68号線 一里塚の全景 つしましのおすいマンホール デザインは、尾張津島天王まつりのまきわら舟と市の花フジ 神守ふるさと散歩道 江戸時代、東海道「七里の渡し」に代わる脇街道として利用された佐屋街道。正保4年(1647) 万場と佐屋の距離が長いので、中間点の神守に宿がおかれた。ひなびた風情の町並みや、一里 塚が残る神守の路。あなたも江戸時代にタイムスリップしてみませんか・・・・・・・・ 14:11 佐屋街道を進む 14:17 道標の石柱 右:つしま・・・、左:さやみち 道路の両側に常夜燈 津島街道埋田追分 埋田町のここには津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和34年の伊勢湾台風で倒れて台 石のみ)と常夜燈(夜どおしあかりをともすとうろう)一対追分(別れ道)をあらわす 道標が残っている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は「佐屋の渡し」へ の佐屋街道と分かれる所で江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々で にぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていた また熱田から津島までの道を「下街道」と呼んでいたが、今は耕地整理や新しい町づくりで道 すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚万場(共に名古屋市) 砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て津島追分から佐屋にいたり佐屋川を船で下って桑名へと続 き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの「海上七里の渡し船」をきらった人達に広く利用 されていた。徳川三代将軍家光や、明治天皇の通られた跡や記録が街道各地に残されている 14:26 県道68号線を進み、名鉄尾西線、名鉄津島線の踏切 14:27 内佐屋交差点を左折して県道458号線(一宮弥富線)へ 14:30 佐屋海道址 史跡 佐屋海道址 かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。往時の栄華を後世に語り継ぐため、 昭和54年(1979)11月に碑が建てられました 県道458号線(一宮弥富線)沿いに立つ石碑 14:31 佐屋街道を南下 13:38 佐屋代官所址 所在地:愛知県愛西市佐屋町宅地 佐屋代官所址 佐屋路が名実ともに天下の往来となったのは、三代将軍徳川家光が上洛の折、道中の宿泊に使う 「御殿」を佐屋に建てたことからといわれています。佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩の海東 ・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けました。 街道の治安と、三里の渡しを監督する海の関所的な仕事も手がけていたようです 愛西市の歴史にふれて散策しよう! 佐屋路 江戸時代、幕府は東海道はじめとする街道を整備するとともに、宿駅制度も整備しました。東海道 は宮(熱田)から七里の渡しで桑名へ渡るルートをとりました。七里の渡しは、通行の際支障をきた すことが多く、幕府は佐屋宿を創設し、桑名への三里の渡しでもって渡るようにしました。それに 伴い、宮と熱田を結ぶ脇往還佐屋路が整備され、多くの通行人で賑わいました。 宮宿から桑名宿への距離は? ・宮宿から海路での桑名宿への距離は、七里。 ・佐屋街道の陸路は佐屋宿まで、六里。桑名宿への海路が三里で、計九里。 よって、佐屋街道の陸路+海路は、二里の遠回りとなる 佐屋宿 その昔、あらいの渡しと呼ばれていました。 交通上の要衝であったことから元和年間佐屋奉行が設置され、寛永年間佐屋宿が創設されました。 徳川家光の上洛をはじめ、多くの大名、文人らが往来しました。大名らが宿泊する本陣のほか旅籠 も建ち並び、多くの商家も営業していました。本陣は岩間権右衛門家と加藤五左衛門家が勤め、加 藤家は問屋も兼務しました。陸上交通と水上交通の結節点として、また他国との境界として佐屋宿 は重要な位置を占めていたことは、天明元年(1781)代官駐在制採用の際、水野(瀬戸市)・北方(一 宮市)とともに佐屋代官所が設置されたことからもうかがえます 史跡 東海道佐屋路佐屋三里の渡址 佐屋と桑名を結ぶ海路三里の船旅は当時多くの旅人が利用したといわれています。 明治の中頃に佐屋川が廃止され、農地転用されるまで大いに賑わいました 佐屋駅 渡口 その昔は、ここまで佐屋街道を歩きここから舟に乗り、三里の渡しで桑名宿へ行ったと。 現在は、道路脇に「佐屋三里之渡址」の石碑のみが残るが、今回は訪問しなかった 佐屋宿を通った人々 懐恩碑と加藤高明内閣総理大臣の碑 加藤高明内閣総理大臣の碑 加藤高明は、万延元年(1860)正月3日 父 服部重文(佐屋代官所手代)・母 久子の次男として佐屋で 誕生、幼名は総吉 7歳で祖父と共に名古屋に移住し14歳で加藤家を継ぎ高明と改名。 東京大学卒業後、三菱会社・船舶会社を経て官界に転じ、特命全権駐英大使・外務大臣等を歴任 憲政会総裁に推され、大正13年(1924)内閣総理大臣に就任 大正15年1月国会で演説中に倒れ同月 28日逝去 享年67歳 伯爵正二位大勲位菊花大綬章を授かる。 由緒あるこの地(生誕地はここより南方約百米)に直筆の碑を柚木から移し建立した 故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うと共に、感謝とお礼の意を込めて加藤高明伯が 揮毫したもの 関宿への移動日ー続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.04 03:00:06
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