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おじん0523のヒロ散歩

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2020.12.08
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カテゴリ:国内旅行
五稜郭、四稜郭の散策後、夕暮れの立待岬へ向かう。
市電「谷地頭」電停から狭い一方通行の道路を走り、立待岬へ。

10月20日(火) 16:28
立待岬(たちまちみさき)
所在地:北海道函館市住吉町9-9
今まで函館へは何度も来ているが訪れたのは今回が初めてである。
立待岬は歌人石川啄木の墓がある風光明媚な崖の上のスポット。険しい海岸線を一望できる


函館山散策コース案内図


日が沈むので急いで西側に立つが、既に夕日は山の向こう側に沈んでいた


期待した光景にはならず。
立待岬広場は海面から約30mにある


立待岬へのアクセスは、レンタカー、タクシー、市電「谷地頭」電停を下車して徒歩20分。
立待岬の駐車場は広く無料


駐車場の手前は、はまなす公園。かつてははまなすが群生していた立待岬


函館駅の後方に駒ケ岳が夕焼けに染まる


石碑の上には津軽海峡の位置図が描かれていた
2001年9月15日 建立


石碑には
かつて「はまなす」が群生した立待岬は、厳しい気候風土にさらされ、枯れ果ててしまいました。
私達は、1985年から植栽を続けいつしか「はまなす公園」と親しまれるようになりました。
函館海峡ライオンズクラブは、結成30周年を記念して、スポンサークラブや姉妹友好クラブと共
に「はまなすの咲く岬」を完成し再現することができました。
この地を訪れる人々に、憩い楽しんで頂ければ望外の喜びであります


スポンサークラブ
  ・函館東ライオンズクラブ
姉妹提携クラブ
  ・大畑ライオンズクラブ
  ・京都淀ライオンズクラブ
  ・藤沢湘南ライオンズクラブ


はまなす公園の後方には亀田半島


立待岬の石碑


各地の岬は演歌歌手が多く歌っているが、ここ立待岬は森昌子が歌っている。
また、ボタンを押すと音楽が流れるが、ここにはその設備が無いのか静かであった


立待岬
この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと立って
待つ)に因むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれ
たことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられて
いた。現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。近くには石川啄木
一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある


石碑には
ライオンズクラブ国際協会    331 複合地区
第33回年次大会 記念事業     331-Ⅽ 地区
ライオンズ はまなす公園          
        1987年〇月〇日
はまなす庭園の中に東屋が建つ


駐車場脇に
函館山(夜間) 交通規制中
4月25日から9月30日まで      :17時 ~ 22時
10月1日から11月12日まで(予定)    : 16時 ~ 21時      バス・タクシー以外は登れません!
レンタカーは、朝暘観賞、昼間、深夜は入れるのだ。
明日は昼間に登山予定


16:36
駐車場脇の立待岬休憩所・売店「はまなす」
今シーズンの営業もあとわずか(11月中旬クローズ予定)。
「冬期間は花園町の居酒屋くるみにいます」と


つぶ貝、ほたて貝、あげいもに焼きが定番だと。
地元人も大すき・当店1番人気「つぶ貝」1串 400円。
残念ながら時間が遅く店仕舞い中であった


駐車場近くにある「与謝野寛・晶子の歌碑」


与謝野寛・晶子の歌碑
昭和31年(1956)、市立函館図書館の創設者であり館長であった岡田健蔵の十三回忌が行われ、
その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年(1957)、同会は棒二森屋百貨店
の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年(1931)に来函した与謝野寛・晶子の
歌碑を立待岬に建立した。
晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。
また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた


与謝野寛・晶子の歌碑
左側には
  「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土   寛」
  「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと   晶子」
右側には
  此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子夫妻が昭和6年6月6日函館に来遊した時の詠草の中
  から選んだもので、歌の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木石川一、図書裡岡田健蔵である
     昭和三十二年八月十五日建立
       計画  図書裡会
       賛助  棒二森屋


立待岬に建つ2基の句碑
手前は、
  「烏賊つりの 父の灯見分け 子の立てり   竹堂」
     竹堂とは庭田竹堂のことで、明治36年(1903)2月、七飯町に生まれた俳人。
     「赤壁」、「さいかち」の函館地方支部長などを務めた。
赤い碑は、
  「海峡や 波音ちかく 朧月」
     函館市出身の書家・中村朝山


御殿山の展望台を望む
今日はロープウェイは点検中で運休


御殿山頂上には、多くの電波塔、ロープウェイ山頂駅舎


立待岬から歩いて戻り、石川啄木一族の墓近くから駒ケ岳を望む。
下は住吉漁港


ズームアップ
今回の旅で、かつての駒ケ岳は富士山のような円錐形の1,700メートルほどの山だったが、寛永
17年(1640)の大噴火によって山頂部が崩壊しこのようになったことを知ったが、現在でもその
雄姿を見せていたらまた違った光景に・・・・・・


坂を下ると、市電「谷地頭」電停方向で、ここは一方通行。
宮崎郁雨と影二の歌碑、石川啄木一族の墓があるエリア


宮崎郁雨と影二の歌碑が並ぶ。
左から、宮崎家一族之奥城、宮崎郁雨の歌碑、砂山影二の歌碑


宮崎郁雨と影二の歌碑
宮崎郁雨の歌碑
  宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父
  親は味噌製造業を営んだ。明治39年(1906)に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となっ
  た。翌40年(1907)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続
  け、明治42年(1909)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
  郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年(1962)に亡くなった。この歌は
  没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年
  (1968)に函館図書裡会が建立した。
砂山影二の歌碑
  砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918)に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人
  として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木
  の影響が見られる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年(1921)、青函連絡船から身を
  投じ、弱冠20歳の命を絶った。
  この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968)、海峡評論社と
  函館図書裡会が建立した


道路脇に建つ、石川啄木一族の墓


墓石には「啄木一族墓」


石川啄木一族の墓
明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40年(1907)5月
から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(文芸結社)同人らの温かい友情に支
えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは箱館
で・・・・・」と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年(1912)
4月病魔におかされ、27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913)3月啄木の遺骨は節子未亡人
の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月、彼の後を追うかのようにこの世を去った。
大正15年(1926)8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在
地に墓碑が建てられ、現在は啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが津軽海峡の潮騒を聞きな
がら永遠の眠りについている


16:49
石川啄木一族の墓前から函館山ロープウェイ山麓駅、市電「谷地頭」方向を望む。
薄暗くなってきたので次の場所へ行くため駐車場へ戻る


16:52
碧血碑(旧幕府軍の墓)(へきけつひ、へっけつひ )


17:06
碧血碑近くの八幡宮神社の駐車場に車を止める。既に陽も沈み回りが林で夕闇に。
所在地:北海道函館市1
北海道函館市函館山に明治8年(1875年)5月に建立された戊辰戦争、特に箱館戦争における
旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。土方歳三や中島三郎助などをはじめとする約800人の戦
死者を弔っている


箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地、箱館での旧幕府
脱走軍戦死者の霊を祀っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年(1875)
大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍
奉行であった大鳥圭介の書といわれている。
碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱
走軍の霊を公然と祀るには支障があったことが推測される。なお、碧血とは「義に殉じて流した
武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである


碑の高さはおよそ6mほどある。碑石は伊豆産産の石を使い、東京霊岸島で造り、
海路運搬されたものである


方向を変えて撮影


ここから二枚はネットから引用


碧血碑の前にはいつも多くの献花が飾られている


18:37
ホテルへの帰路途中昨夜のスーパーで夕食を購入。
入浴前に、土産物店の下見に新函館北斗駅へ。
到着本数が少ないので観光客も少ないエスカレーター


19:28
風呂から上がり昨夜と同じように部屋で宴会


お刺身盛合せ、松前漬け、つぶわさび、メンチカツ、主食を購入  総計 2,322円


購入した時間が遅かったので、刺身も半額でゲット。
豪華な夕食となりました


函館の旅三日目の走行距離は200km、歩行数は17,270歩でした。

明日はいよいよ函館の旅最終日ですが、ブログは日をさかのぼり「日々の出来事」「ヒロ散歩」
をアップしますのでよろしくお願いします。

                                                 
- 続く -





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最終更新日  2020.12.08 03:00:06
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