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おじん0523のヒロ散歩

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2023.01.27
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カテゴリ:続 日本100名城
小栗上野介ゆかりの東善寺の散策を続ける。

11月16日(水) 15:50
小栗上野介父子の奥に家臣の墓が並んでいた。手前にも5人の墓があった。
こちらは養嗣子の小栗又一忠道関係の家臣の墓であった。


家臣の墓
(右から)
塚本真彦勉    江戸からの家臣
  上野介随員として渡米、権田へ移り西軍により宮崎城内で又一と共に斬首さる。三十七歳
  又一と共に高崎市下斎田に葬られる。
沓掛藤五郎    江戸からの家臣
  上野介に従って権田へ移り、西軍により宮崎城内で又一と共に斬首さる。   二十五歳
  又一と共に高崎市下斎田に葬られる。
多田金之助    江戸からの家臣
  上野介に従って権田へ移り、西軍により宮崎城内で又一と共に斬首さる。   二十歳
  又一と共に高崎市下斎田に葬られる。
塚本 ミツ    真彦の母
  難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中、地蔵峠付近の山中で四月八日孫チカと共に自害。
塚本 チカ    真彦の長女
  難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中、地蔵峠付近の山中で四月八日祖母と共に自害。七歳位


こちらの石碑には「霊光院○山智劔居士」。


上の段に小栗家臣の墓が並んでいる。


本堂前に戻り、歌碑には、
 「慈恩 いろどるゆめ詣で 久遠のひびき東善寺 妙音うれし 花浄土  雨
妙音碑 横手由男 平成四年九月二十三日
 寄進 沼田運新次郎 二十一世泰賢代
妙音碑 妙音とは観音さまのことです。 画・文 雨・横手 由男
横手由男は、群馬県渋川に生まれた「さすらいの画家、通称:雨さん」であると。


15:55
境内から国道406号 (草津街道・信州街道) へ戻る。 
木柱の側面には「右 江戸駿河台へ 131.5km、横須賀へ 189.2km」。
約15分であったが小栗上野介ゆかりの東善寺を参拝し後にした。


16:00
岩窟観音  熊谷次郎直実愛馬権田栗毛 守護
所在地:群馬県高崎市倉渕町権田
岩窟観音は熊谷次郎直実の愛馬・権田栗毛の母衣についていた金の観音像 (一寸八分:約5cm)
を胎内に奉蔵した観音像を祀る。


国道406号 (草津街道・信州街道) の道路脇に車を停める、旅友は既に引き返し撮影に・・・。
右側の斜面には「岩窟観音 南参道」。


国道沿いに「上州 権田の里」「幕末の史蹟」「小栗上野介埋骨の地」。


また、道路沿いには「観音山小栗邸跡 → 500m」の案内板も。
小栗邸跡には駐車場が完備されている。


訪れなかったので以下2枚の写真はネットから。
案内板には「小栗上野介の屋敷はこの下の平地です」と。
石碑には、小栗上野介の業績を刻んでいる。


屋敷跡には、
高崎市指定 史跡 観音山小栗邸跡
    指 定 昭和五十七年四月一日
    所在地 倉渕村大字権田字観音山3584-1 
小栗上野介忠順は、江戸幕府の要職を免ぜられ、慶応四(1868)年三月一日、家族、家臣ととも
に権田村に隠棲した。当初は東善寺を仮住居とし、ここに住宅の建設を始めた。宅地の造成、
用水路、田畑の開発を行い、そして三棟の住宅建築にかかり五十余日で、間口十二間、奥行き
七間半総二階の主屋一棟が上棟のはこびとなった。小栗日記によるとこれは四月二十八日のこ
とである。
ところが、翌二十九日から事態が急変し、江戸城総攻撃のため薩長の東山道軍が高崎を通過の
際、小栗に謀反の意志ありとして配下を差し向け、ついに翌月閏四月五日高崎・安中・吉井の
三藩に命じて小栗を捕らえ、一言の取り調べもなく翌六日 (太陽暦では五月二十七日) 烏川の
水沼川原で家来三人と共に斬首した。
完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。
邸跡には礎石など残り、水路は今も利用されている。
    平成九年三月
                     倉渕村教育委員会


山斜面に「巌窟観世音」の標石。


石段を上ると正面に、岩を背に岩窟観音堂が建っていた。
平成十二年(2000) 十月六日突如背後の岩石が崩れて観音堂を押しつぶした。
この為、平成十五年十月に改修されたきれいなお堂である。


本堂の扁額「岩窟観世音」。


みごとな獅子の彫りものも復元。


岩窟観音堂の縁起
熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛は、この地で育った名馬です。栗毛は源平の合戦に活躍しましたが、
一ノ谷の合戦で傷ついてしまいました。直実は「よくやってくれた。これからは権田で暮らすが
よい」と権田へ帰しました。
栗毛はなつかしい故郷へ帰ってきましたが、育ててくれた生家は絶えてありません。栗毛は悲し
みのあまり屋敷跡でいななきました。その時、栗毛は母衣(ほろ・武士が馬上で背負う矢よけの
袋)を落とし、一寸八分の観音像が現れました。
栗毛は再び熊谷の主君のもとへ帰ろうとしました、三ノ倉土城谷戸で力つきて亡くなりました。
村人は母衣から現れた観音像を胎内に納めた木像を作り、この岩窟に観音堂を建てて祀りました。
「観音清水」は栗毛が権田の里に帰ってきた時、飲んだといわれる泉です。
   関連史跡
● 栗毛の母衣を祀ったお母衣明神は、栗毛の生地と言われる権田小池にあります。
● 三ノ倉土城谷戸の馬頭観音堂跡には馬頭観音が祀られています。
▲ 小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。  


観音堂の背後には平成十二年(2000) 十月六日に突如崩れた岩山が迫る。


観音堂の右側に、「石仏」、背後の岩山も補強されたのか。


屋根は銅板葺きに、また屋根の下隅にはかわいい風鐸(ふうたく)が下げられていた(黄色丸内)。


境内から草むらの南参道を下り振り返る。


16:05
小栗上野介忠順終焉の地
所在地:群馬県高崎市倉渕町権田
慶応四(1868)年閏四月五日、上野介と家臣3人は捕縛され何の取り調べもなく、翌日ここ水沼
川原において斬首された。上野介42歳でした。終焉の地には、「偉人小栗上野介、罪なくして
此所に斬らる」と刻まれた碑が、昭和七(1932)年地元の有志等によって建てられた。


国道406号西側の田の一角に「小栗上野介顕彰会」の旗がはためいていた。


かつては、烏川の水沼川原の河川敷であったのだろう。今は石垣で囲まれ一段高くなっている。


地元の有志等によって昭和七 (1932) 年に建てられた「顕彰慰霊碑」。


高崎市指定 史跡 小栗上野介忠順終焉の地
    指 定 昭和五十七年四月一日
    所在地 高崎市倉渕町水沼字中川原1613-3
小栗上野介忠順は、安政七年(1860)一月 日米通商条約批准書交換のため目付役として渡米し、
帰国後、外国奉行・勘定奉行・陸軍奉行の要職につき、幕府の重鎮として活躍した。なかでも
横須賀造船所の建設は彼の提唱によるもので、当時は東洋一といわれた。
慶応四年(1868)、薩長等倒幕勢力に対し主戦論を唱えたがとり入れられず免職され、領地権
田村に隠棲した。この頃、野州、武州一帯に起こった暴徒の一隊は、小栗が多額の軍用金を持
ち帰ったというデマに踊らされて本村に襲来した。小栗方はこれを見事に撃退したが、これら
の行動が、「小栗は強力な兵力を持ち叛逆の企図あり」の虚言を生み、東山道総督府がそれを
取りあげるところとなり、小栗追討令が下った。
小栗は養子又一を高崎藩に遣わして他意のないことを開陳したが入れられず、遂に囚われの身
となり、慶応四年閏四月六日(太陽暦では五月二十七日)、家来三人と共に水沼川原の露と消え
た。時に四十二才であった。
    平成九年三月
                     高崎市教育委員会   


石碑には、「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」と刻まれている。


烏川の東側堤下にある。


16:12
終焉の地を後にし、この倉渕郵便局前交差点を右折して国道406号を高崎方面へ向かう。


この後の帰路のルートは、
上野介終焉の地 → 高崎インタ → 鶴ヶ島JCT → 八王子JCT → 茅ヶ崎西インタ
目的地までの所要時間は、2時間33分、172km。


カーナビの案内は、167km、到着予定は19:07と。


国道406号(草津街道・信州街道)を進み三ノ倉落合交差点を直進。
ここを右折すると9kmで安中榛名 (あんなかはるな) 駅へ。


16:28
室田交差点を直進して、国道406号から県道29号線 (あら町下室田線) へ進む。


16:34
県道29号線 (あら町下室田線) の鳥井沢交差点を直進。


16:35
県道29号線 (あら町下室田線) のこの先高浜交差点を直進。


県道29号線 (あら町下室田線) のドドメキ交差点を直進。


16:40
右折して県道29号線 (あら町下室田線) へ進む。


県道29号線の町屋橋東交差点


16:42
我峰町交差点を右折して県道29号線を進む。


16:45
県道29号線の下小塙町交差点を直進。市街地に入り車の通行量が多くなる。
この辺りは、高崎市下小塙町1030。


高崎インタに向け県道29号線を進む。


17:08
県道29号線から27号線に入り、高崎インタまで200m。


17:10
関越自動車道高崎インタ入口


18:00
関越自動車道を進み、鶴ヶ島JCTまで 1km。


19:10
鶴ヶ島JCTから圏央道を走り茅ヶ崎西インタを下りる。
出発時の到着予定時間とほぼ同じ時間に到着した。
ちょうど夕食時でここ茅ヶ崎西インタ出口にある「かつや」で食べることに。


後日旅友から頂いた今日のドライブルート、走行距離は昨日と同じで300キロ。
二日間での累計距離は600キロで、今回も無事故無違反であった。


いつもの「ロースカツ定食」をオーダー。
豚汁も美味しかった。飲み物も欲しかったが運転中で我慢。


今回の旅で、続日本100名城の征服も累計48城に。今年何城攻略できるか。
また、江戸末期の人材、國定忠治の知らなかった一面、明治以降の日本の近代化への道を開
いた小栗上野介を知ることができた旅であった。
今回も旅友にはお世話になりました。

                                         END​​​





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最終更新日  2023.01.27 03:00:07
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Re:栃木・群馬県の続日本100名城巡りー26、東善寺、岩窟観音堂、終焉の地から高崎経由帰宅(01/27)   jinsan0716 さん
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お疲れ様でした。
私も明日(その31)で完了予定です。 (2023.01.27 09:01:41)


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