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カテゴリ:ヒロ散歩
あしがり郷 瀬戸屋敷のひなまつりを約1時間散策。 この後、瀬戸屋敷の裏手徒歩1分にある、関東大震災にも耐えた『古民家ガーデン紋蔵』を訪 ねることに。 3月3日(日) 13:05 ”古民家ガーデン 紋蔵” の案内板。 休憩所としてご利用できます。 ● ペット同伴可能 ● 開成町赤ちゃんの駅 おむつ交換・授乳できます 駐車場を抜けると『NPO法人 すずろ 古民家ガーデン紋蔵』の案内板。 のぼり旗に「着物・帯・和物 リメイク材料専門店」と。 古民家ガーデン紋蔵 所在地:神奈川県足柄上郡開成町金井島 1294 古民家ガーデン紋蔵は、穏やかな時の流れと優しさに包まれた藁葺き屋根の古民家で営む、リ メイク&リユース着物材料の専門店です。古き良き物をいつまでも大切にしていきます。 古い物から新しい物へ蘇る、お手伝いをさせてくださいと。 庭先には人力車もあったが、記念写真用であろうか。 庭先のベンチでは多くの人が休憩していたが。 西陣織などのリサイクル着物・帯等、それらから生まれ変わったリメイク品をたくさん取り 揃え、皆さんをお待ちしていると。 花嫁衣装もリメイク。 人力車の車夫のはっぴ。 リメイクして飾りに。 男の目には ”古民家ガーデン紋蔵” は見所が無かった。 13:10 瀬戸屋敷の駐車場で係員から頂いたパンフレット。 係員の方から「瀬戸屋敷の後は是非訪れて下さい、カーナビは電話番号で」と。 南足柄市郷土資料館 森のひなまつり 特別展示 江戸木目込人形 令和6年2月10日(土)から3月31日(日)まで 伝統と革新 雛の競艶 瀬戸屋敷からカーナビの案内で県道78号線(御殿場大井線)を「南足柄市郷土資料館」へ向かう が渋滞がひどく、途中で諦めて「山北町の谷峨 (やが)」地区へ行くことに。 13:30 県道78号線を右折して北上、再度県道720号線(怒田開成小田原線)に合流。 県道沿いに「文命堤」の看板があり立ち寄ることに。 石碑には「大口広場」と。 大口広場駐車場 所在地:神奈川県南足柄市班目1548番地1付近 南足柄市の桜の名所である大口広場。両側に桜の大木があり、桜の季節には美しい景色、夏場 は木陰で涼しいバーベキューが楽しめる。公園内にはトイレと水場がある。 駐車スペースも無料。 酒匂川河川敷でもバーベキューが楽しめる。 酒匂川治水史探訪マップ 古来より暴れ川であった酒匂川では、数々の治水事業が行われてきました。 その歴史と先人の思いを、次の世代の人たちにも伝えるため、「酒匂川流域の交流ネットワーク 会議」の協力のもと、この「酒匂川治水史探訪マップ」を作成しました。 ① 三保ダム ② 文命西堤 ③ 文命東堤 ④ 木工沈床 ⑤ 決壊した九十間土手(昭和13年) ⑤ 九十間堤防完成(昭和14年) ⑥ 聖牛 ⑦ 曽比の霞堤 ⑧ 松並木 ⑨ 富士山と松並木 ⑩ 旧酒匂堰取水口(移築) ⑪ 水防用玉石 酒匂川に生息する主な魚類 ここに表示されている魚は、酒匂川でごく普通に見られる魚たちです。この他にもまだたくさ んの魚たちが、生活しています。かわいがって観察しましょう。 ”河をきれいに大切に” 神奈川県 県西土木事務所 箱根ジオパーク 南足柄エリア 「氾濫と治水 双方に関わる火山活動」 文命堤(ぶんめいづつみ) 文命堤周辺は、箱根火山の噴火による火砕流堆積物が酒匂川に浸食されることにより生まれた 天然の崖と、その崖を巧みに利用して川の勢いを弱めて氾濫を抑えようとした、先人たちの災 害との戦いの歴史を学ぶことができるジオサイトです。 ◇「暴れ川」との戦い 酒匂川はかつて「暴れ川」と呼ばれるほど、氾濫を繰り返しては足柄平野に甚大な被害を もたらしてきました。 《氾濫と治水の歴史》 1609年(慶長14年) 小田原藩主・大久保忠世、忠隣、3堤2岩によるℤ型を完成。 1707年(宝永4年) 富士山宝永噴火、降灰により河床が上昇、豪雨による岩流瀬土手 (がらぜどて)、大口土手崩壊。 1726年(享保11年) 大岡越前守の命により、田中丘隅(きょうぐ)が岩流瀬土手、大口 土手を修復。 治水の神「禹王」を祀る文命宮(現在の福澤神社)を建立。 2つの土手は禹王の別名にあやかり「文命堤」と呼ばれるように 1734年(享保19年) 再び決壊。死者39名家屋122軒が流される。 その後・・・・・ 田中丘隅の娘婿、蓑笠之助ら多くの先人の努力で現在の豊かな足柄 平野に。 ◇ 文命堤と箱根火山 先人たちの知恵と努力に加え、箱根火山も酒匂川の治水には重要な役割を果たしています。 流れを「ℤ」型に変えて弱めるときに使われた千貫岩や、更にその上流には、6万6千年前 の箱根火山の大規模噴火などによる火砕流堆積物が露出しています。新大口橋の上などか ら観察でき、多いところでは厚さ10m以上にも及びます。この大規模噴火による火砕流の 勢いは凄まじく、横浜まで達しただけでなく、相模湾を越えて城ヶ島まで到達したことが わかっています。 ◇ 酒匂川治水の要所 1609年以前は、左上から右下へ流れていた。 ・人口の土手で流れを誘導・・・ ・天然の崖にぶつかり勢いが弱まる ・直線だった流れ ⇒ ℤ型に 酒匂川を背に社の中に ”見守り地蔵” 。 社の中には木製の見守り地蔵。 ソメイヨシノも老木に。 樹齢は50年以上であろう、根元は一部枯れていた。 大口広場から県道720号線(怒田開成小田原線)を見下ろす。 直進すると、瀬戸屋敷、開成駅へと。 道路標識は”大口河川敷”の施設を案内。 酒匂川越しに ”神奈川柑橘果工株式会社” 。 大口広場には木製のテーブルが多く設置され、BBQが楽しめる。 上流側を望む。3月末にはサクラ見物の人で賑わうのであろう。左奥にはトイレ。 県道720号線(怒田開成小田原線)の道路脇に石碑群があった。 道路を背に、点在していたのを集結したのか大小の石碑が立っていた。 それぞれに花、供え物があり今でも参拝する人がおられるようだ。 碑の説明板が無いのが残念だが。 右側の石碑には「堅牢地神尊天」と。 赤い頭巾をかぶった ”大口川丈地蔵尊” 。 田中丘隅が酒匂川治水を祈願して大口・岩流瀬・吉田島・金手・多古・飯泉に建立した六地蔵 の一つと伝わる地蔵。 左側には、馬頭観世音の石碑が並んでいた。 一番左側の石碑には「馬頭観世音」と。 県道720号線の上流側には酒匂川に架かる ”新大口橋” 。 道路標識をズームアップ。 この後、県道74号線の ”御殿場、山北” 方面へ。 文命堤の説明板 日本語、英語、中国語による説明。 文命堤 酒匂川はかつて暴れ川と呼ばれ、大口付近でしばしば氾濫し流路を変えていました。しかし文 禄から慶長年間に大口堤と岩流瀬(がらぜ)堤が築かれ、ほぼ現在の流路に定まり、足柄平野は 水田が発達したと言われています。 宝永四(1707)年に富士山が噴火して大量の火山灰(黒色で多孔質な降砂)が降り積もり、酒匂川 の河床は浅くなりました。そのため、宝永五(1708)年と正徳元(1711)年に、大口堤と岩流瀬堤 は決壊し、下流の村々は大きな被害を受け、その後の復興は困難を極めました。そこで、江戸 幕府の八代将軍徳川吉宗は、享保八(1723)年に、南町奉行大岡越前守に命じて治水、利水事業 に詳しい、川崎宿の名主であった田中丘隅(きゅうぐ)(休愚)を遣わして、享保十一(1726)年に 大口、岩流瀬堤の復旧工事を完成させました。 丘隅は、大口、岩流瀬堤の上に、治水、護岸を祈願し、中国の治水の神とも言われる禹(う)(称 号は文命)を祀った文命宮を作り、大口堤を文命東堤、岩流瀬堤を文命西堤として、両堤を文命 堤と名付けました。 享保十九(1734)年に文命堤は再び決壊し、丘隅の娘婿で代官の蓑笠之助が復旧しましたが、本 格的な復旧ができたのは明治時代に入ってからでした。 江戸時代を通じ、酒匂川の治水は、流域に暮らす人びとにとって悲願ともいえることでしたが、 その成否を担う場所として、文命堤はありました。 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会 道路沿いに大きな石碑が立っていた。 字が風化して判読できなかったが「文命・・之・」と。 13:50 大口公園の駐車場を振り返る。 ー 続く ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.15 03:00:07
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