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カテゴリ:ヒロ散歩
山中城跡の散策を終え朝食兼昼食をとることに。ここまでの歩行数は7,200歩であった。 4月28日(日) 10:10 山中城跡案内所・売店 所在地:静岡県三島市山中新田410-4 ☎:055-985-2970 営業時間:10:00 ~ 16:00 ※ 1 ~ 3月の平日は 10:30 ~ 15:30 定 休 日 :月曜日 ※ 祝日の場合は営業、翌日休み ゴールデンウイークになり天気も良かったので多くの車が駐車していた。 店内に入ると年配の女性二人が営業。 メニューの横には有名人のサイン色紙が飾られていた。 暑かったので ”ザルソバ” 550円をオーダー。 店内では3種類の登城御朱印が販売されていた。 賞状は「日本百名城の認定証」。 食事を終え山中城跡案内所から旧国道1号を下り帰路についた。 10:30 ドラゴンキャッスル 所在地:静岡県三島市山中新田123-1 笹原山中バイパスの山中城口交差点の右側にあるアスレチックタワーで、令和4年 (2022年) 8月8日に三島市の新名所としてグランドオープンした。 この辺りに旧東海道の西坂が下って来るので道路脇に車を駐車。 石畳の入口に「箱根旧街道」の案内板。 この石畳は平成30年(2018)12月18日(火)に箱根宿から三島宿に向かって一人で下って来た。 その時のブログは「山中城址からこわめし坂」👈 をクリック願います。 箱根旧街道 腰巻(こしまき)地区の石畳復元・整備 この説明板の内容は、山中城跡案内所・売店裏にあったものと同じである。 この区間の石畳は左が箱根側(案内所・売店裏)でここが右の三島側で350mの石畳である。 旧東海道を歩いた時は石畳で歩きづらかったことを思い出す。 その時の所要時間は箱根関所を9時に出発、JR三島駅へ16時に到着、7時間を要し約4万歩歩き 足に血豆が出来たことを思い出す。 この後、山中城口交差点から笹原山中バイパス、国道1号を登り帰路についた。 11:00 接待茶屋 所在地:静岡県三島市山中新田 途中気になっていた「接待茶屋」へ立ち寄ることにバス停横のスペースに車を停めた。 バスは元箱根港行きで始発が8:50、1時間に1本、最終が17:15。 バス停で見上げると白いサクラが満開であった。 ズームアップするがオオシマザクラであろうか。 バス停から歩いて旧東海道入口へ、ここを右に入り三島宿へと下る。 平成30年(2018)12月18日(火)に歩いた時のブログは「箱根峠から西坂を下る」👈 をクリック 願います。 接待茶屋 箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を 往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。 この接待所も一時途絶え、ついで文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、こ れも明治維新とともに中断してしまった。 やがて明治十二年(1879)、八石性理教会(ハチコクセイリキョウカイ)によって接待茶屋は再スタートしたが、 教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代に より接待が続けられた。鈴木家は、昭和四十五年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終 止符を打つまでの約九十年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。 箱根の接待茶屋については、「山中接待所」や「茶屋」などさまざまな呼称がある。「廣為道友 鋳此器永充施行平憩之用」の銘がある著名な茶釜や、「せったい處」「せったい茶屋」の看板と ともに、施行奉仕の跡をしのぶ遺跡として本遺跡は貴重である。 出典 接待茶屋遺跡発掘調査報告書 (1996年) 序文より。 平成十七年十二月 三島市教育委員会 説明板から当時に写真。 国道沿いにある ”山中一里塚” 。 一里塚の植込みの中に石碑。 石碑には「国指定史跡 江戸より二十六里 東海道一里塚 函南町」と。 標高が高いのでツツジはまだつぼみ状態。 サツキは一部咲いていた。 道路沿いに案内板がないので見落としやすい。 国道1号の下り線側にある「接待茶屋跡」。 国道の交通量が多く中央分離帯があったので上り線側からズームアップ。 国道沿いから旧東海道に入り振り返る。 左側に旧東海道の道案内。前方の路面には次の案内板が埋め込まれていた。 路面にあった案内石碑。 箱根八里 西坂 箱根関所跡 ← 4km 山中一里塚 11km → 三島宿 箱根旧街道 旧東海道に入ると直ぐに立っていた説明板。 説明板には「国指定史跡 箱根旧街道」。 マップには、 ① 箱根八里記念碑 ② 山中一里塚 ③ 石割坂地区の石畳 ④ 国指定史跡「山中城跡」(岱崎出丸) この箱根旧街道は、慶長9年(1604年)に江戸幕府が整備した「五街道」の一つ、東海道 の一部です。江戸日本橋を起点とした一里塚の設置や、並木の整備も行われ、街道とし ての体裁が整えられていきます。 函南町内では、石割坂地区(函南町桑原)に石畳が600mほど連続して良好に残っていま す。文久元年(1861年)皇女和宮が第14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁するに際し、大改 修が行われた時のものだといわれています。 交通の要衝として賑わった箱根旧街道も、明治5年(1872年)に宿駅伝馬制度の廃止、明 治22年(1889年)に東海道線開通、大正12年(1923年)の国道1号線敷設により、街道と しての役割を終えていくことになります。 近世の交通の要として役割を担った箱根旧街道は、旧東海道の箱根越えの路として旧態 をとどめており、日本の交通史上貴重なものとして、国の史跡に指定されました。 旧東海道を下ると鬱蒼とした左側に石碑が建っていた。 徳川有徳公遺蹟碑 徳川有徳とは徳川吉宗(徳公とは謚名の有徳院から)のことで、紀州公から将軍にな るために江戸へ向かう途中、石割坂にあった茶店で休憩をとりました。 その間に、店の主人が馬の世話をよくしたところ、吉宗はその心遣いに 大層喜び、 自ら永楽銭(えいらくせん)を与えたといいます。 それからというもの、代々の紀州公は、参勤交代の際にはこの茶店で休み、永楽銭 で支払うようになったと伝えられています。 またその頃から、この茶店を 「永楽茶屋」と呼ぶようになりました。これを記念し て、この地の観光開発に尽くし富士屋ホテルのコック長を務めた鈴木源内が昭和10 年に建てたのがこの「徳川有徳公遺蹟碑」 であると。 その向かい側にも倒れかけた玉垣の中に石碑。 兜 石 かぶと石 この石は兜を伏せたような形をしていることからかぶと石といわれている。また別の説として 傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことから かぶと石とよばれるようになったともいわれている。 この石は兜石坂にあったものを、昭和初め国道一号線の拡幅工事のときこの地に移したもので ある。 平成九年十月 三島市教育委員会 苔むし傾いた石碑には『兜石』 傳ヘ云フ天正ノ昔豊太閤小田原征伐ノ途次路傍ノ小石ニ腰掛ケ兜ヲ脱テ大石ノ上ニ 置キ暫ク憩ヒシコトアリト後人因テ之ヲ兜石ト名ツタ此石即チ是ナリ石ハ奮ト接待 茶屋ノ上方奮街道ノ側ニアリ大正十二年新道通スルニ及ヒ空シク荊刺中ニ埋レ復ク 英雄ノ遺蹟ヲ省ルモノナシ是ニ於テ今茲昭和六年秋新ニ此處ノ移セリ因テ其由ヲ敘 ヘ石ニ刻ス 鈴木源力読 国道沿いから、6年前の2018年12月18日に歩いた道を百メートルほど下ると分岐点に。 道案内には、右:施工平・三島市眺望地点、直進:山中城跡・三島宿と。 前回の6年前は一人で歩き誰もいなく心細かった。 右側の坂を登ると「箱根山組合創設百年記念植林地」と刻まれた石碑。 右側の ”施工平・三島市眺望地点” へ向かって上るが途中で引返すことに。 分岐点を見下ろし振り返る。 ゴールデンウイークになり、旧東海道を歩く人に数人出会う。 樹々の間に苔むした石があったが説明板がなく詳細は不明。 通路らしきものもあったが。 ズームアップするが。 芽吹いた木を見上げる。ネームプレートから ”クマシデ” 。 クマシデはカバノキ科クマシデ属の落葉高木。山地の沢沿いなどに生える。 別名はカタシデ、オオクマシデ(ウイキペディアより)。 ネームプレートを見て ”イロハモミジ” を見上げる。 秋には紅葉して目を楽しませてくれる。 イロハモミジは、ムクロジ科カエデ属の落葉小高木または落葉高木である。別名で、イロハカ エデ、タカオカエデなどとも呼ばれるが、単にモミジと呼ばれることが多い。 日本では最もよ く見られるカエデ属の種で、紅葉の代表種である(ウイキペディアより)。 国道1号は片側2車線で急カーブになっているので中央分離帯が設けられている。 接待茶屋バス停へ戻る。 バス停の標識が新しくなっていた。 11:15 標高846mの箱根峠 静岡県側の国道1号は片側2車線に整備されている。 神奈川県側はかつては有料であった箱根新道で片側1車線である。現在は無料になっている。 この後自宅へは12時過ぎに到着。走行距離は往復100キロ。 山中城跡のツツジを楽しんだ日曜日午前中のプチドライブであった。 END お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.28 08:41:37
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