藤井聡太四段は将棋ファンの間では奨励会時代から期待されていましたが、四段昇段後の目覚しい活躍によって一躍日本中に知られる存在となりました。
24連勝目となった叡王戦の梶浦宏孝四段との将棋をニコ生で観ていたのですが、86手目6六歩が指された時に物凄い音がしました。
『バチン』だか『ゴキ』だか『バキ』だか、一瞬何が起きたのかと思いました。
直後、指された周りの駒が乱れていたのを慌て気味に藤井四段が直していました。
僕は将棋を指す時は駒音をなるべく立てない方針で指しています。以前にもこのブログで書いています。
将棋の読みというのものは頭の中で完結していて、それを手付きに表す必要はない。激しい駒音を立ててアピールする必要も相手を威圧する必要もない。
谷川九段が「この時思わず指先に感情が表れてしまった」と自戦記の中で恥じていた事があったし、高橋九段は「強く叩きつけると駒がかわいそう」だと言っていました。
世の中にはバシバシ音を立てて指す人もいますしそれが間違っているとは言いません。ただ僕は僕でそれが一種のスタイルであり哲学とも言えるし、とにかく一つのこだわりとしてそうしています。音を立てるのは未熟さの表れ、それが信念とも言えました。カッコをつけて音を立てるよりも静かに指す方がむしろ技術が要ると思っています。
藤井四段にしても、あの時の指し方は決して褒められたものではないと、本人もそう思っているだろうと思います。
だけど、よくよく考えれば「それが何?」と思えてきました。
藤井四段がどういう気持ちであの6六歩を指したのか。
あの局面では飛を逃げても優勢という解説でした。
それに比べて6六歩は飛と金の2枚を取らせる手で一見危険な手に見えます。
安全な勝ち方(僕にはそこまでの判断は出来ませんが)がある、だけど危険ではあっても最短の勝ち方、最善を目指す手、それが見えているーー
藤井四段には、おおよその判断は出来ていたでしょうが、だけど読み切れてはいなかったのだろうと思います。秒読みに追われ、時間が切迫する中、ギリギリまで必死に考え抜いたのでしょう。
本当にギリギリまで考え抜いて時間切れ寸前となり急いで指した、それがあの物凄い駒音となって表れたのだと思います。
何度思い出しても鳥肌が立ちます。
自分が盤の前に座っていたら、ビビっていたでしょう。
藤井四段にあの場を自分が支配するという意識なんてなかったでしょうが、誰よりも強い気持ちであの将棋に臨んでいたように思います。その強い意志力を前にして、僕なら支配されていたでしょうーー
あの瞬間、藤井四段には局面しか見えていなかったのだと思います。
連勝の事も、対局料の事なんかも勿論、そんなものは一切頭の中になく、ただただ一心不乱に無我夢中で死に物狂いで読みに読んだ。
深浦九段が「連勝が続くと、普通はどこかで満足してしまいそうですが、彼にはそういう部分がありません。常に貪欲で、強い相手と指して勝ちたいと思っています」と藤井四段を評していましたがまさにその通りなのでしょう。
どうしてあそこまで一生懸命になれるのか。どうしてあんなにまで周りの何もかもが見えなくなるくらいに一点に集中出来るのだろう。
魂が揺さぶられました。
『百尺竿頭進一歩』という言葉がイメージとして浮かびました。禅語で、詳しくも知らないのに講釈をたれる訳にもいきません。というか不正確な記憶だったので検索しました。ただのイメージです。
(それまで積み上げたものを一瞬にして失うかも知れないリスクを恐れずに更に一歩を踏み出すというイメージ)
そして、「将棋とはこういう姿勢で追い求めるものだ」と教えられたような気がします。
決して「将棋とはこういうものだ」という事ではないのです。「将棋とは分からないものだ」と教えられたのだと思います。
故芹沢博文九段はエッセイで「24歳でA級八段となった私は『将棋が分かった』と思った。同じ24歳で名人になった中原誠は『将棋は難しい』と何故か分かった」と書いています。
恐らくはその「分からない」という考え方、姿勢が正しいのだろうと思います。
未熟で当然。誰も完成などしていない。
無限に深い世界へ、藤井四段は真っ向から挑んでいるのだと思いました。
13勝5敗という成績で三段リーグを1期抜けした藤井四段。12勝4敗で自力で迎えた最終日。初戦を落としたけれど強運にも自力の目を失わず、最終局に勝って昇段を決めたのを見て「持ってる人だな」と思いました。
二段から三段への昇段の時、痛い負けを喫して三段リーグへの参加が半年遅れてしまい「半年分の遅れを取り戻す」と考えて初参加の三段リーグに挑んだそうです。
周囲からすれば「早過ぎる」と思えるところを、本人は「遅れを取り戻す」ですから、相当に目標の高い人だなと思いました。
1期抜けした事実、この目標の高さ。
僕は「本物だ」「怪物がとうとう現れた」と思っていました。
しかし、ここまで勝つとは思っていませんでした……
16連勝目となった横山大樹アマ戦。
僕はこの将棋を、将棋を知らない知り合いに対して説明する言葉を用意していました。
「途中まではむしろ横山さんが押し気味だった。じりじりとした戦いが続いた所で、横山さんが前に出た。一瞬『これは藤井四段が危ないのか?』と思った。それが数手進んでみたら、いつの間にか体(たい)が入れ替わっていて、逆に終わっていたみたいだった」
「だからもう少し我慢比べを続けるべきだった」
そして「我慢比べに、社会人が中学生に負けた」という言い方をして笑いをとろうと思っていました。
「まあ、そこら辺の判断は難しいから。我慢し過ぎて、そのままやられてしまう場合もあるし」
「戦いを起こすための優れた判断基準を藤井四段が持っていたから。終盤力という判断基準を」
そんな感じで話して、本当に人間力や精神力の勝負で負けたという訳でもないだろう、と横山アマをフォローして……という風に自分の中でシナリオを作っていたのですが。
この時の僕は、まだこの”最年少棋士”をどこか甘く見ていたのかも知れません……
もうそんな考えはほぼなくなったと思います。
ただ一人の人間として将棋盤に向かう、それだけなのだと思います。
現実には彼は中学生で学業との両立、進学の問題などを抱えている訳ですが、上手くクリアしてこのまま真っ直ぐに伸びていってもらいたいと思います。