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2017/02/04
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カテゴリ:歴史

日本人とユダヤ人のルーツについて、日ユ同祖論があります。

半信半疑でしたが、調べれば調べるほど、その要素が濃く認めないわけにいかなくなってきました。

確かに、彼らは、日本へ渡来し、日本国形成の重要な役目を担ったようでした。

飛鳥時代から古墳時代がそうで、前方後円墳は、彼らの手によるものです。

秦人といわれる彼らは、壬申の乱以後、影を潜めますが、そのパワーは、

後の世の武士として蘇るのです。

ビーだま.gif

藤原氏に溶け込んだ秦人もいて、天皇家の側近に身を置き、今も連綿とつづいています。

例えば雅楽部の方々がそう思われます。秦人は世の表舞台にでることは控え、芸術面などに

広がっていったようです。能の世界、世阿弥などもそうです。

世阿弥による【阿漕】という【能】は、九州日向国から伊勢国に参り、海人の亡霊に出会う内容に

なっています。阿漕は、三重県津市にあり【津】はシュメール語の【ツ】突き出た塊をいいます。

越の【エ】は家、【ツ】は海岸線の突き出た塊(岬の入り江)などに海人が家を建てて拠点にした

ことから【越】は拠点を意味します。これは【呉越同舟】の【呉人】と【越人】も倭人であるところから

きています。海人は海岸付近で住み、先住民である縄文人のテリトリーを侵すことはせずに

稲作農法を伝え、鉄の農具も与え、共存していたそうです。

それが大黒・エビスへの親しみになったのでしょう。

エビスと呼ばれた人達は、中国大陸では東夷(東のエビス)と云われたエブス人です。

夷(てつ)の人で鉄部族ですが先住民と混血して蝦夷にもなったのでしょう。縄文人である先住民は

メソポタミアに住んでいた苗族で、シュメール人の支配下にあったウバイト人(苗族)が、大移動を始

め、パミール高原からアラル盆地、ウラル山脈沿いに北極まで行き、シベリア、モンゴル、満州、

朝鮮、日本北部に拡がり、さらにベーリング海峡を渡ってアメリカに行き、インデアンになったと云い

それぞれ移動した地域によって各種族に形成したようです。バイカル湖のブリヤード人は、苗族が

寒冷適応のツングース化した北方モンゴロイドで、さらに南方から来た倭人(南方モンゴロイド)

混血したのがアイヌ人、沖縄人も南方モンゴロイドなので同祖になります。

ビーだま.gif

『三郡誌』によると現在の津軽地方に最初に定住したのがアソベ族で

その後、ツボケ族が大挙して渡来してきたといいます。

好戦的なツボケ族により、アソベ族は、山辺に移ります。そして、大地震と火山の噴火でアソベ族は

壊滅的打撃を受け、わずかに生き残った者もツボケ族の支配下に置かれます。

伝承に「アソベ族 とツボケ族は同祖であり、アソベは西の大陸から、ツボケは東の大陸から東日流

へやってきた」とあり、中南米にも「アステカ人は東方アジアからやってきた」という文献があって

縄文土器も発掘されています。この伝承は、元々バイカル湖畔にいた種族が、一部は日本列島に

渡ってアソベ族となり、一部は米大陸に渡った後に日本列島にやってきてツボケ族になり三内丸山

遺跡を築き津軽古代王国造ったと思われます。この王国に、出雲の秦王国に敗れた長髄彦一族も

亡命してきました。アソベ族・ツボケ族・長髄彦一族は混血し、新たに「荒吐族」(アラハバキ族)と

なり、倭人の王族だった長髄彦の一族が継承する事となり、幾度となく秦王国へと侵攻し

崇神帝即位迄、次々と荒吐系の天皇を擁立したのです(孝安帝と開化帝)。 長髄彦の子孫は

連綿と続き、奥州藤原氏(安倍氏の血を汲む)を輩出したのです。

安倍氏は源義家によって滅ぼされましたが、長髄彦同様、棟梁が戦死しても嫡男は密かに

宮城から津軽十三湊へと逃れ、安東氏として復活したのです。安東一族は「津軽の王」となり

当時の有力氏族が所領を拡大する事に力を注いでいた 時、安東氏は、十三湊を「首都」に

中国・朝鮮・沿海州から東南アジア・アラビア、遠く ヨーロッパまで交易し、莫大な収益を

上げていました。当時の十三湊は、「津軽三千坊」 と呼ばれる程多くの神社仏閣が建ち並び、

港には中国人は元より、インド人・アラビア人・ヨーロッパ人等が多数の異人館を営み、

さながら幕末の横浜の様相を呈していました。 また、港には日本全国から常に二百隻以上の

商船が停泊し、ヨーロッパ人の為にカトリック教会まで建っていました。

更に、 安東氏は日本海を隔て た沿海州の至る所に、「安東浦」や、「安東館」(領事館)を持ち

樺太・千島列島・カムチャツカ半島迄「領土」として支配していました。

しかし、十八回もの大津波の被害により栄華も、終焉を迎えました。

ビーだま.gif

古代津軽王国が何度もリベンジしたという秦王国は、シルクロードから来たユダヤ十支族を含む

弓月君の秦族が、シュメールの王=殷(辰王)の箕氏に従って中原(満州)~朝鮮半島~九州の

鳥栖と吉野ヶ里に渡来した後、出雲へ移動し秦王サルタヒコを出雲大社に祀り、倭人の王、インド

のナーガ族長髄彦と戦った後、近畿で秦王国を築き、白村江の戦いの後、新羅指令の元、神武・

卑弥呼を祖とする倭国=九州の筑紫王朝と合体し日本国となって新羅の支配下に入りました。

彼らは白村江の戦いの時に新羅方についたので優遇されました。

やがて応神天皇の時、弓月君が120県の民を引き連れて、その時最初に上陸したのは

赤穂市の尾崎の浜だったそうです。シュメール人を基層民とする秦人は高度な職能軍団で

灌漑も得意とし、メソポタミアで小麦を育て、それを輸出していましたが、灌漑をやり過ぎたため

塩害でウル第3王朝が滅んでしまい、この事も中国大陸に移動して殷を造った原因のようです。

メソポタミア南部のような乾燥地帯で、灌漑を行い、大量の水を散布すると、灌漑用水は、

一旦は土壌中の塩類を溶かしながら下方へと浸透しますが、やがて毛管現象により上昇し

地表面にまで来ると、水分が蒸発するので、塩類だけが残る。そして、地表面に塩類が残留する

と強い浸透圧により、植物は根から水を吸収できなくなり、枯れてしまう。これが塩害です。

メソポタミアの刻文に「黒い耕地が白くなり平野は塩で埋まった」という記録があります。

この経験を逆に活かして製塩の技術を取り入れたのか赤穂が製塩で有名なことと関連性が

窺われます。また吉良家とは製塩業で競合していて赤穂製塩法の秘伝を乞われて断った

ことからトラブって刃傷沙汰になったとの説もあります。古代イスラエルも日本も塩は撒いて

邪気を祓う清めに使われています。相撲も古代イスラエルを起源とし、シルクロードを通って

モンゴル、朝鮮半島経由で日本に伝わったもので、土俵を清めるために塩が使われています。

赤穂は養蚕、機織、蹉跌による製鉄にも適した土地で古くから秦氏系の人々の植民地でした。

日本中の神社は、秦氏により建てられ、京都の本拠地、太秦はユダヤ、シメオン族系イスラエル

の王国を現わすといいます。祇園祭りもシメオン族の祭りで葵祭(賀茂祭)、賀茂社も秦氏が関わ

り神社ばかりでなく仏教にも大きく貢献し東大寺建立にも尽力し立派な業績を残しています。

しかし秦氏は政治家になる者はほとんどいないばかりか、歴史の表面にも積極的に出ない

一族でありました。その反面、経師や絵師、能楽師などの芸術家、土木・建築の技術者

また酒造りの技術など政治とは別の面で積極果敢に活躍した人々でした。

日本のフリーメーソンと云われる所以です。世阿弥の母親は秦氏の出自であり、「猿楽」の祖は

秦氏の首長、秦河勝、東義秀樹氏の祖です。斯様に日本に多大な貢献をしながら秦一族は

平安時代を境に秦という名を消してしまいます。 生前はもちろん、死後に至っても徹底的に

自分達の出自や素性を隠して日本に溶け込んでいったのでしょう。

日本最大の支配階級として君臨してきた藤原氏、その出自も隠されています。

藤原氏と秦氏は婚姻関係を結んでおり、藤原氏を秦氏が経済的に支援し、

権力闘争や疫病で藤原氏が弱った時に、その一部が藤原氏に成り代わり、

両者は、ほとんど融合し皇室を婚姻により包囲していったと思われます。






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最終更新日  2017/02/04 04:08:52 PM
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