カテゴリ:旅行記 中欧8ヶ国 '12.9月
そして、
「ここだよ、サラエボ事件があった場所。」と、私はムラトさんに教えた。 サラエボのどこもかしこも興味深いといった表情の彼は、一段と目を見開いて頷いた。 それは、この橋のたもとで起こった。 セルビア青年が引いたその拳銃の引き金は、まさに世界中を戦争に巻き込む引き金となってしまった。 第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボの銃声だ。 「picchuko、ほら。 犯人はここで拳銃を打ったんだ。」 ムラトさんは顎に手を当て、もう一度深く頷く。 真剣な目だ。 1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルデナントとゾフィー妃はここで暗殺されたのだ。 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに統治されていた。 すでにかつての勢いをなくした老大国オーストリアと、南スラブ人統一を望み オーストリアによる併合に反発するセルビア人。 不穏な情勢に、何かが起こっても不思議ではなかったはず。 だが、そんな中でパレードは行われた。 暗殺に関わったのは7名。 最初に投げられた手榴弾は皇太子夫妻の乗った車ではなく、後続車のそばで爆発、失敗に終わる。 この後、後続に居て怪我をした将校達をすぐに見舞いに行こうと予定を変更したのが、皇太子にとって運の尽きだった。 いや、病院へ向かう車が道を誤り、ラテン橋のところで方向転換したことこそ、運命の分かれ道だったに違いない。 最初の爆発音で持ち場を離れていた暗殺犯の一人、19歳のガブリロ・プリンツィブはそこで皇太子に気付き、二発の引き金を引く。 皇太子とその妃ゾフィー、絶命。 皮肉にも、その日は皇太子夫妻の結婚記念日だったとか。 すぐさま捕らえられたプリンツィブではあるが、セルビア愛国者として称賛され、一時 この橋はラテン橋からプリンツィブ橋へと名を変えた。 ユーゴスラビアが崩壊するまでは、そう呼ばれていたらしい。 彼は自分の一撃が、こうも世界も時代も変えてしまったことを知ってこの世を去ったのだろうか? 1918年、獄中にて結核で亡くなっている。 銃撃は橋目前の、現在は博物館になっているこの建物前から発射された。 上のプレートはそれに埋め込まれたもの。 流れるミリャツカ川の水量は少なく、さほど広くもない道の、一つの小さな橋のたもと。 ここがその現場などときっと誰しも思いはしない、そんな場所だった。 「ここなのか~・・・。」 ムラトさんも意外そうに、しばし詳細な説明に釘付けだった。 ところで、私は小学校でその歴史を習った時から、何故かいつかはここに立つような気がしていた。 理由などないが、そこに立って改めて当時の予感を思い出していた。 ま、その時 自分の隣りにトルコ人が居ようなどとは、さすがに予知できなかったけど。(笑) Google map<2012.09.19 Sarajevo> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.11.16 00:02:23
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