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ピエトロ5539

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2022.01.30
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カテゴリ:トピックス
これは私の子供の頃の記憶です。(1965年頃)
私が生まれ育ったのは、定山渓から15Kmほど山に入った豊羽鉱山です。
当時、山には3000人ほど暮らしていました。
人里には滅多に熊は出ませんが、山菜の時期になると熊に殺られたと言う話が数件ありました。
毎年、4月から5月の後半にかけて長靴で雪の上を抜からずに歩けるようになると、ライフルを持つ山口3兄弟の長男の乙吉さんをリーダーとし山の有志達が数人集まって半径10Kmぐらいを熊の足跡を追って行きます。他の人達はみんな村田銃を持っていきます。
戦後20年後頃なので、戦争当時はみんな20代前半~30代の元日本兵です。銃の扱いには慣れています。

お昼過ぎ頃に、熊が捕れたと知らせが入ります。
現地では、松の木を切って大きなソリを作り熊を固定してロープをみんなで引っ張って帰ってきます。
ロープの写真での中央付近で腰を降ろしているのが私の父親です。腰にはいつも長いナタが下がっています。今でも私が保管しています。
 
山口宅横の空き地に櫓を組んで熊を立った状態にして吊るし、血抜きをします。それを3日程します。
夜に共同浴場に行く時、その前を通るので熊と血の匂いがとても怖かった。
その後、みんなでナイフで熊を捌きます。その時は業者がたくさん集まり毛皮・熊の手・肝臓など買っていきます。
肉を貰いますが、球状の筋だらけで野生の匂いがして堅くてまずかったけど、滅多に肉を食べれないので少し食べた。
時々、父親は家で灯油コンロで缶カンに鉛を溶かしてパチンコ玉位の鉛弾を作っていました。
熊用の弾はどんなのかは知りませんが、まさか!うちの父親の銃が火縄銃では無いと思います。













手前の小学生が私です。






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Last updated  2022.03.24 22:28:26
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