高麗人の墓碑・逆修碑 (画像)
高麗人の墓碑・逆修碑(佐賀市金立町大門)高麗人陶工の墓碑・逆修碑という事で、ここを訪れてみたのですが、その後色々と調べてみたところ、ちゃんとした資料があるわけではなく、逆修碑の高麗国と葉隠聞書の金立山に召置かれ…からそうではないだろうかという事のようです。高麗人陶工を調べていると数人ほどの名前が出てくるのですが、それぞれの陶工に対して古文書に残る説明が引用されていて、どれが正しいのか混乱するようなものがあります。素人の疑問…もし高麗人陶工だとして1598年に日本に来て、藤の川内へ移った陶工がなぜ1628(1629)年にこの地に墓碑・逆修碑を建てたのか…。藤の河内へ移ったのが1614年頃のようですが、それからでも14年経過している。現在、車を使って移動しても、金立から藤の川内へ移動しても一時間以上かかる距離他にも調べているときに色々な疑問があったけど、色々ありすぎて忘れてしまった(苦笑)Link:地図Link:航空写真周辺情報:高麗人の墓碑・逆修碑のある場所には駐車場がありません。周辺道路もあまり広くないので、他の史跡などを回りつつ、徒歩や自転車などの移動が無難かもしれません。 高麗人の墓碑・逆修碑南側のあぜ道からの撮影佐賀市史跡 高麗人の墓碑・逆修碑写真の説明版より引用したものです。※ 写真をクリックしても拡大表示されます。佐賀市史跡高麗人の墓碑・逆修碑昭和60年12月12日指定この2基の石碑は、いずれも高麗帰化人の墓碑で、1基には「逆修、朝鮮国工政大王之孫金公之」、右側に「道清禅定門寛永六年巳己八月日」、左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」の碑文があり、他の1基には「暁月禅定門寛永五年戊辰九月初五日」とある。「葉隠聞書」にも「有田皿山は、直茂公、高麗国より御帰朝の時(慶長三年:1598)宝になるべくと候て、焼物上手頭六、七人召し連れられ候。金立山に召置かれ焼物仕上り候…」とある。これらのことから、この付近で16世紀末李氏朝鮮国の陶工団により陶磁が焼かれていたことをうかがわせているとともに、肥前磁器の歴史を究明する上から貴重な史料である。上記で書かれている葉隠聞書は一部なので全文を…。「葉隠聞書」第3 有田皿山は直茂公高麗国より御帰朝の時、日本の宝になさるべくと候て、焼物上手頭六七人召し連れられ候。金立山に召し置かれ、焼物仕り候。その後伊万里の内、藤の河内山に罷り移り、焼物仕り候。それより日本人見習ひ、伊万里・有田方々に罷り成り候由。高麗人の墓碑・逆修碑最初に先ず感じたのが、状態がいいこと。今まで色々なところで碑や墓石を目にしてきたけど、彫られた文字がほぼ確認できるし、撮影した写真からも読めるほどに。石が風化に強いのか、長い間地中に埋もれていたとか…地中に埋もれていて風化しないのかまではわかりませんが…(苦笑)向かって左側の墓碑大きなオレンジ色の丸は、丸の中に梵字が書かれているようですが、読み取れません。青い文字は説明版にはないものの、書かれている文字赤い小さな丸は文字の一部が分かるのですが、それがどういう文字なのか判別できません。 向かって右側の逆修碑オレンジ色の丸は上記と同じです。赤い色で描いている天の字ですが、逆修碑を見ると年ではなく天と彫られているようにも見えるので…。あと朝鮮国工政大王之孫金公之…は続きがあるような。逆修碑の下部は欠損しているのでしょうかね…。 墓碑・逆修碑を東側方向から撮影したもの。上で書いた葉隠聞書ですが、前に「葉隠発祥の地」を載せたことがありますが覚えてらっしゃいますか?写真の奥に見える山の方に葉隠発祥の地があります。上の写真の反対側からの写真ちなみにこの墓碑・逆修碑のある場所は直径数十メートルほどの円墳(古墳)だったようですが、大部分は削られてしまい現在は直径数メートルほどになってしまっていました。