告白すれば私は絵描きとして、高解像度カメラで人間の皮膚を撮影した写真に、時に嫉妬することがある。これは絵では表現できない、と。皮膚のザラつき、毛穴、皮脂のヌメリ等々。私はその皮膚感にエロティシズムを感じるのだ。人間を描くなら、そういうものを描きたいのである。
ところで、昨日言及したアンドリュー・ワイエスに私が注目するのは彼の風景画に対してではなく、もっぱらその人物画に対してである。彼の皮膚描写に独特の感性を見るのだ。ワイエス作品にはエロティシズムの一面が色濃くあるけれども、それは挑発的なポーズなどでは全然無く、人間の存在そのもの、人間の生命からあふれる精気感と生命の孤独な不安感によるものである。その捕えかた、・・・あるいは感性といってもよいし画家としての視線といってもよいが、それは美術表現としてはむしろ非常に特異なエロティシズムである、と私は思っている。
彼は、皮膚にこそ個性がやどっているとでも考えているかのようだ。いや、その考えは正鵠を射ているだろう。皮膚には人生が表れる。
私は昔、学生時代にパン製造工場で早朝配送のアルバイトをしたことがある。東京工場からできたてのパンや菓子を車で小田原方面まで運ぶのである。帰りはちょうど昼頃に茅ヶ崎近辺を通過するのだが、運転手はそこで弁当をつかった。浜辺に一件の漁師小屋があり、腰のまがった老婆がたったひとりで住んでいた。その小屋を借りるのである。老婆は茶をいれてくれながら、運転手と四方山話をした。老婆の顔は潮焼けした鞣し革のようで、無数の深い深い皺におおわれていた。私はかつてそのような顔を見たことがなかった。苦労知らずに育った学生の私には、別世界の人として映った。私は、感動した。すばらしい顔だと思った。皺の一本一本に、私の知らない物語がきざみつけられているのだと思った。・・・私は、老婆の顔をつくづくと観察し、そして昂揚していた。私の生命がもえあがるようで、もしそう言ってよければ、それはエロティックな感覚であった。
その頃私は絵描きになるとはまったく思っていなかったが、後年、絵描きになってから、しばしばその老婆の顔を思い出した。あの皮膚、あの皺、あの存在感・・・喜びも悲しみも、いっさいが潮に焼かれてしまい、いまは喜びや悲しみを語る言葉さへなく、ただ命としてそこに存在する人を。
ワイエスの描く人物を見るとき、私は茅ヶ崎海岸の老婆を重ね、そして確かに作品を理解する。
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