今朝、作曲家の新実徳英氏から御親切なお手紙とともに嬉しいプレゼントがあった。新実氏のヴァイオリン曲を収録した2枚のCD。
一枚は、〈ソニトゥス・ヴィターリス〉ヴァイオリンとピアノのための作品集、2台のヴァイオリンのための〈舞踊組曲 ー I love Lucy〉。
演奏者: 渡辺玲子(ヴァイオリン)、加藤知子(ヴァイオリン)、寺嶋隆也(ピアノ)。
二枚目は、ヴァイオリン協奏曲 第2番〈スピラ・ヴィターリス〉。「太陽風」〜オーケストラのための。 「沈黙(しじま)へ」〜弦楽オーケストラのための。・・・3曲を収める。
演奏者: 渡辺玲子(ヴァイオリン)、梅田俊明(指揮)、岩城宏之(指揮)、仙台フィルハーモニー管弦楽団、東京都交響楽団。
新実氏の曲はラテン語の題名が多いが、〈ソニトゥス・ヴィターリス〉とは「生きとし生けるものの音」、〈スピラ・ヴィターリス〉は「生きとし生けるものの螺旋」あるいは「生命螺旋」という意味である。
新実氏によれば、遺伝子(DNA, RNA) の螺旋はもとより、一日一日の時間のめぐりは決して元に戻る事無い螺旋を描きつづけていると言う。氏はその螺旋を音楽形式として曲の外形を創造し、音楽としての内容を唯識論における阿羅耶識にもとめて、いわば無意識界の音像をさぐる。
私が新実徳英氏のあらゆる曲に驚嘆するのは、新実様式ともいうべき新しい音楽形式の創造と、そこに盛られた音楽の内的発露の感覚性がみごとに共存し、しかも常に生命の宇宙的無限的規模への拡張感があるということだ。
この作曲家が常日頃耳を傾けている対象、聴きとっている「音」・・・私はそのことを想像するだに、俗な表現ながら「鳥肌がたつ」。上述の三者が芸術作品に共存することは、めったにはないのだ。私は、そのことを良く知っている。様式は無意識の発露を減殺し、無意識にたよれば形式は失われる。あるいは子供じみた言葉遊びに堕す。そして個を源泉としながら宇宙的無限大の広がりを獲得することなど無きに等しい。
新実徳英が「自然」と言うとき、「雨」や「風」や「木々の葉擦れ」と言うとき、あるいは「生命」と言うとき、私の聞く耳はもっとも注意深くなる。それはたんなる情緒を超越して、とんでもない極致につきすすんでいるからだ。ついて行けないなどと私は言うまい。ついて行くのだ。どこまでも。新実徳英が歩いてゆく極致へ。
私はこの現代作曲家がどこに到達するのか見極め(聴き極め)たいのである。
新実さん、いつかまたお会いしてお話ししましょう。今日は有難うございました。