393074 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

pretty物欲

pretty物欲

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
July 13, 2009
XML
カテゴリ:意見・提言
本日、衆議院可決につづいて、参議院でも
脳死判定基準がようやく可決された。
それにより、脳の死はヒトの死、と位置づけられた。

脳の活動停止が起きたとき、
回復の見込みがないのであれば、
それは死ということだとボクは思う。
但し、
その時代の医学では、いかにしても救いようがないのであれば、
という条件付である。

今回の脳死判定基準をめぐっての争点は、
脳死という状態が、
治療可能かどうかという点だと思う。
回復可能な患者から臓器を摘出してしまったら、
それは殺人というものだ。

医学だって、いまだ発展途上の
不完全な科学のひとつ。
科学は日進月歩で発展していくものだ。
いまの脳科学は、物理的な現象観察と、
行動分析の両面で進んでいるが、
それがやがて1つに収束し、
体型立てて完全に理論的に解明されると思う。

 脳とは、何か?
 心とは?
 魂とは?
 そして、生命とは?


一種科学めいていながら、
何らの実証をも行わない不思議な学問”生命倫理”とやらが、
解明された生命の原理によって
その意味を失う未来が、いつかくると思う。

今で言う脳死さえ、人類が克服する時代がくるのだ。
脳死状態を治す術を人類は持つのだ。
それができたとき、”脳死”という病名は、
単なる”脳停止”と変わるかもしれない。

脳死に”死”という漢字をあてたのは、
不可逆的な意味を持たせるために使われたのだろう。
それが治療可能になれば、
それは脳死ではなくなる。

単なる風邪のように、なんらかの治療を施せば、
ケロリと治るものとなったなら、
そのとき急いで法律を改正しないと、
脳死殺人事件のようなものが、相次いで起き、
社会は混乱するだろう。

そのときのために、素早い改正への道が
開かれているのかが、
今回、ボクが最も気にすることである。


そして今回、ボクが驚いたことがある。
国会議員とは、国民の代議士であるだけで、
医学の研究者でも専門家でもない。
せいぜいできて一般大衆の大多数の感情=民意を理解するにとどまる。

今回の場合、民意=感情ではなく、
科学をその判断に使わねばならない、
それなのに科学者ではない国会議員が、
ロクに議論を尽くすことなく、
この脳死判定を扱って多数決投票し、可決した。

大変なことが起きたのではないか?
彼らはその責任をきちんと理解しているのか?
ボクには、彼らには役不足に思えて仕方がない。

今回の採決では党議拘束を外したらしいが、
逆にそれは、国会議員のひとりひとりが、
議案の成立に責任を持つということである。

党がきちんとした研究会を持ったり、
専門家委員会をつくって、
党として出すべき結論に、一定以上の責任を持てるような
行動をしたかどうか。

そこいらへんが面倒だから、
党議拘束をはずして、
議員に重い判定をまる投げしたのではないか。
今回、党は党議拘束を外すことで、
責任を持つことを逃げただけ、とボクは思っている。

生命の倫理に関わるから党議拘束を外した云々、
なんていうのは後付けの言い訳にしか聞こえない。
生命を党が軽んじているのではないか。
ボクはそれほどまで、この脳死判定は重要な問題だと思っている。


そしてもうひとつ問題を感じる。
傍から見ていると、議員の脳死判定に関する考え方は、
日本から外国へ金で移植渡航する事態が頻発して、
世界から日本がヒンシュクを受けている現在の状況を、
政治的に解決するための手段、としか受取れない。

つまり、ヒトの死を見つめなおした結論ではなく、
いかに諸外国からの厳しい目をそらすか、という、
政治屋の発想である。

そんな歪曲した発想ならば、
今後医学の進歩があっても、諸外国に気を遣って
脳停止はヒトの死のまま、になるかもしれない。
そんな恐ろしいことはない。

治せる病気を治すと、政治的にリスクになるから、
治療を促進せずに脳死と判定し、
臓器を摘出し続ける。
そんな出来の悪いSFのような恐ろしい日本の未来が、
ボクには見えてくるのだ。


今回の件で、もうひとつ、
別の面で考えさせられることがボクにはあった。
生命の定義である。

生命とは、意識を持つことが必要条件。
たとえそれがヒトの形をしていても、
また息をし心臓を動かしていても、
それだけでは、ヒトとして生きていることにはならない、という認識。
そこに意識があり、こころを持ち、意見と判断力を持つことだけが
生命ということ。

これが、今回国会で合意された、日本国の法律上の、
生命の定義と読めた。
さらに飛躍して考えると、
人間とロボットとの線引きを明確に行った
新しい判断基準ともとれる。

いま存在する、知能を持たないロボットは、
人間の形をして人間のように器用に二足歩行してみても、
それは決して生命ではない。
意志を持たないからだ。

もし今後、人工知能の研究が進み、
こころを持ち、意見と判断力を持つようになって、
そこに意識が認められたら。
それが脳死判断された生体に組み込まれ、
その生体が意識を持ったかのように、動き出したなら。
その人工知能を移植された元脳死の生体は、
果たして「生命」と判断されるのだろうか?

人工知能が人間の意識と遜色ない「意識」と
事実上認められるほどの完成度になったら、
今回の国会の解釈からいえば、
それは人工の「生命」の誕生を意味する。

それはさすがに恐ろしいことだから、
電子回路上の「意識」は生命でない、
となりふり構わず例外として法律で縛るのか?
それとも、
検査で「心」を見出した時点で、
電子回路だろうが生体脳だろうが差別なく
”生命”と認めるのか?

そんなSF世界になるわけない、
と、いま笑い飛ばすのは簡単だ。
笑う理由は、そのひとの想像力のなさと、
問題の理解能力の低さ、
考えることへの放棄に由来する。
将来のいつか、確かに起きることだとボクは思うのだ。

法律はあとで改正できる。
まず踏み出した一歩を、ボクら国民が凝視して
次のタイミングの改正のために、
考え続けなければならない。

ボクは今日、強くそう思った。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  July 14, 2009 12:02:03 AM


PR

プロフィール

ferixじゃり

ferixじゃり

カレンダー

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索


© Rakuten Group, Inc.